50年にわたる先生の戦い

50年にわたる先生の戦いに学べ。

未来を拓く君たちへ part 5

それは50年前の1960年(昭和35年) 5月3日、第三代会長誕生より本格的に世界広宣流布の指揮を執られた先生が、19年間の会長の職を辞した昭和54年の勇退の日。

その前後の真実を書きます。Part3で書いた、

随筆 新・人間革命79 法悟空 【嵐の「4・24」/断じて忘るな!学会精神を】

の当時の状況を説明します。

1977年(昭和52年)「仏教史観を語る」と題した池田会長の関西での講演を、日蓮正宗・宗門が一方的に問題視。

当時若手僧侶の集まりであった、正信会の悪侶どもが学会批判を昂然と開始。

更には週刊誌をも巻き込んで、昭和53年になると、連日、マスコミの売らんが為の記事のターゲットになり、電車の中吊り広告は全て、池田会長一人に対する誹謗中傷の嵐だったのです。

創価学会総体に対する批判というよりも、池田大作個人に向けた攻撃でした。

一人の人間として、日本一同に、こうも個人攻撃を出来るものか! との異常性は、会員に限らず、相当の違和感を覚えていました。

経文通りだとはいえ、民主国家の中で、その異常性は会員・非会員に限らず、少なからず社会の異常性を感じていました。

その裏には、当時創価学会の顧問弁護士であった山崎正友や当時教学部長の原島崇らが、学会と宗門との離間工作を画策し、

自らが宗門を牛耳りその権威を利用し学会を操ろうとしていたのです。

もともと宗門には、僧が上で信徒が下という僧侶の世界特有の歪んだ特権意識があり、そこに山崎等に付け入られるスキがあったのです。

山崎は、当時の日蓮正宗の法主日達に取り入るために、法主に近い若手僧侶を酒、金、遊びで取り込んでいき、このルートを使い「学会はまもなく独立する」「もう本山には登山しなくなる」等といったデマを流したのです。

それにより、宗門の反学会の若手僧侶(正信会)らの動きが、活発化していきました。

山崎は、心臓に持病を抱えていた日達に、有名な医者を紹介し最終的には、自分の事を「山崎先生」と呼ばせるまでに信用させたのです。

最初は問題が起こるたび、池田会長が日達と直接対話し、問題を解決していました。

山崎は「ある信者からの手紙」なる怪文書を作成。

「学会にとって宗門は邪魔であり、宗門を学会の外郭団体にする狙いがある」「このまま宗門は、学会に吸収されるか二つに一つだ」等の、デマを並べ、自分の息のかかった側近を使って日達に届けさせたのです。

それが、宗門の若手僧侶の集会(正信会)で読まれました。

この、怪文書の成功に味をしめた山崎は、その後も怪文書、謀略文書を乱発し、宗門を手玉にとっていったのです。

当時学会の顧問弁護士であった山崎は自分で、紛争の火種をまいておいて、思惑通り火が回ると見るや、今度はその火消し役を買って出るということをしていたのです。

これは マッチポンプと言って 「自分でマッチで火をつけておきながら、それを自分でポンプで消す」 というように、自分でわざわざ問題を作り出しておきながら、そ知らぬ顔で、自分がそれを解決することで、賞賛や利益を得るという偽善的な自作自演の手法です。

その山崎に踊らされ、「今こそ池田大作を亡き者にしよう」「そして、骨抜きとなった学会を宗門の手で支配しよう」と全宗門がこぞって、その牙を剥き出しにしたのです。

その様は小さな傷口に薄汚れた爪を突っ込んで、力まかせに引き裂くようなやり方でした。

坊主達のどす黒い本性が露呈したのです。

それでも池田会長は耐えられました。

こういった渦中の中の54年3月、福島(当時創価学会・副会長。後に退転)が九州の会合で宗門批判をしてしまったのです。

「猊下(法主のこと)に対し、誰もお慕いして近寄ろうとしない」

「猊下が通っても、どこのオジサンだ、という程度の感覚しかない」

「葬式に赤いスポーツカーで来る坊主がいる」

「カツラをかぶってスナックに出入りしている坊主がいる」

等々。大牟田発言である。

この発言がくすぶっていた宗門内の反学会僧侶等の動きに再度に火をつけたのです。

坊主は池田会長に対し、狂ったように責任を取れと騒ぎ立て、

宗門の態度は一気に硬化していったのです。

「池田が会長を辞めれば水に流してやる」と――。

これが、1979年、昭和54年4月24日の第三代会長勇退の記者会見です。

ところが会長勇退直後宗門は、「名誉会長という役職も要らない」と、強引にねじ込んできました。

その後、名誉会長就任拒否は引っ込めたものの、宗門問題は終息するどころか、むしろ「この時とばかり」と、会長勇退後も、その攻撃が始まりました。

全国の寺院で激しい学会批判がなされていったのです。

坊主が厳粛であるべき学会員の結婚式や、葬儀の場で、声を荒げ、池田名誉会長を誹謗中傷、罵(ののし)り狂ったように学会批判を繰り返す。

晴れがましい人生の門出を祝福すべき立場にありながら、また、遺族が悲しみのドン底に沈んでいる、永久(とわ)の別れの場を土足で踏みにじるような、坊主の非道ぶりに、心の底に一生消えない、深い傷をつけられた会員の方が、全国におられたのです。

マスコミが学会を中傷する記事を連日掲載。悪侶や脱会者等がそれら週刊誌を片手に学会を批判。

組織を切り崩そうとし、マスコミがまたそれをネタにする。

純真な学会員と池田名誉会長の師弟の絆を断ち切ろうとする行為が数年にわたってつづいたのです。

当時は折伏をして、お寺に御受戒(入信の儀式)に連れて行くと「お前は、日蓮正宗に入るのか、それとも創価学会に入るのか」と衣の権威を振りかざした坊主どもの陰険な会員いじめがありました。

会員が池田先生のことを語れば、いじめる。

池田先生はすばらしいと言えば、

まだそんな事を言っている会員がいると池田先生を批判する。

池田先生が会員を守ろうとすれば難癖をつける。

当時の学会メンバーは、手も足も縛られて、「池田先生に御迷惑がかかってはいけない」との思いで、みんな襟首を立てて身を縮めて、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかったほど、魔は執拗に攻めてきました。折伏も一世帯も進みませんでした。

それこそ、ただじっと耐えて、励ましあうしかない状況が続いたのです。

この頃より、すでに宗門より指導してはいけないと言われていた池田先生は、

「どうしたら、会員の皆さんに喜んでもらえるだろうか?」と、考えに考えられて、ピアノを習い、時間を見つけては、家で奥様と夜遅くまで練習し一生懸命にピアノに向かって、どこへ行ってもよくピアノを弾かれたそうです。

魂の音率

 

 

 

 

 

 

 

「私の指は、太くて短いので、ピアノを弾くには向いていないんだ。

しかし、会員の皆さんに、少しでも喜んで頂ければ、と思って練習しているんだ。

私は、プロの様に上手(うま)くは弾けない。

しかし、私には会員の皆さんを思う真心があるんだ」と…。

 

 

「このピアノの音色は忘れるな。精一杯の私の激励だよ」と…。

池田先生は、指導もスピーチも何もかも制約され、

それを傍観する学会最高幹部等のいる中で、会員の方一人一人の心の中に、師弟の絆を結ぶための激励として弾かれていたのです。

?昭和54年(1979年)4月24日に先生が第三代会長を勇退。

「七つの鐘」は暗雲の中で鳴り終えた。

先生は指導することを阻まれ、邪宗門に乗っ取られた学会本部と

聖教紙面からも姿を消したのです。

☆☆☆反転・攻勢の戦いを開始☆☆☆

この状況に風穴を開けたのが、昭和56年(1981年)から2年続いた「青年の年」だった。

全国各地で青年部による文化祭が行われた。

あの頃はほぼ毎月、どこかで文化祭があったように記憶している。

まさに絢爛(けんらん)たる大文化祭運動であったといってよい。

悪侶どもが何を言おうと、師を求める青年のを抑えることはできなかった。

殆どの文化祭に先生は出席して下さった。

今、50代60代となっている方々の大半が、この時の文化祭によって育った。

そして、昭和63年(1988年)に、学会は新たな潮流へと向かう。

それまで行われていた本部幹部会や全国男子部幹部会を、学会本部で行うようになった。

勇退以来、先生が再び本格的な指揮を執って下さることになったのである。

それまで分散していた力を再び結集し、本部直結の流れが敷かれた。

この年は「青年世紀の年第一年」と命名された。

日顕による第二次宗門問題が勃発するのは平成2年(1990年)12月27日。今思えば、絶妙なるタイミングを計って、創価ルネサンスの布石を打たれていたことに気づく。

そして電話回線による同時中継が行われるようになり、

遂に衛星中継で先生の勇姿を直接、拝見することができるようになった。

また、長らく中断されていた小説『人間革命』第11巻の連載が再び開始されるなど、激動に次ぐ激動の時期であった。(一部転載)

平成21年12月31日