沖縄健児の歌

沖縄研修道場 施設案内

⚪️ 創価学会沖縄研修道場は、かつての米軍「核ミサイルメースB基地」跡地に建設(1977年)
その敷地内に取り壊されずに残っていた“ミサイル発射台”は1984年に池田名誉会長の提案で、6体のブロンズ像が建つ「世界平和の碑」へと生まれ変わった。

⚪️ 人間革命常設展示室

「戦争ほど残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない・・・」この書き出しで始まる小説「人間革命」は池田名誉会長の行動の原点として、昭和39年­12月2日、沖縄の地で執筆が開始された。その魂魄を留める「人間革命常設展示室」は­半世紀にわたる思想闘争の歴史「人間革命12巻」「新人間革命28巻」は今なお連続闘­争の日々を伝えている。

⚪️  沖縄池田平和記念館附属展示室

中国に向けられていたミサイル発射台の跡に設置された「沖縄池田平和懸念館附属展示室」は、発射台内部の形状を残している。これまで「世界不戦への軌跡」「核兵器廃絶をめざして」などの企画を展示。現在は、「『戦争の基地』から『平和の要塞』へ」

⚪️  世界平和の碑

「沖縄は、平和を考える原点の場所として、ひめゆりの塔もある。健児の塔もある。それとは別の意味で、日本はもちろん世界の平和を考える原点の場所としよう」こうして永遠平和の要塞「世界平和の碑」は誕生した。

⚪️  米軍の核ミサイルメースB基地

中国ににらみをきかせた有翼核ミサイルの巨大要塞メースB基地は、1960年代当時、沖縄の恩納村、読谷村、勝連町、金武町にそろぞれ配備されていた。

「世界平和の碑」が建設される前(1969年)のメースB基地の様子は発射台のコンクリートの厚さは約1.5メートルもあり、普通の建物の2倍の太さの鉄筋が使用され、いかにも核要塞らしい頑丈な構造になっていた。

 

交通のご案内
●お車で
那覇から高速道路・沖縄自動車道利用(石川I.C下車)で約60分。
石川I.Cを出て右折し、国道58号線に合流後、名護市向け直進。
リザンシーパークホテル(進行方向左手)通過後すぐの信号で右折、約400M直進左手。
●路線バスで
「那覇バスターミナル」から20番名護西線、
名護バスターミナル行「谷茶の丘」で下車(所用約95分)、徒歩5分

所在地〒904-0412 沖縄県国頭郡恩納村谷茶1172

未来部歌誕生の地・岡山

高等部歌「正義の走者」の歌詞が完成したのは、1978年7月23日の岡山であった。

★「未来部歌」誕生・・・倉敷総県婦人部書記長の仲前日加里さんは、その完成の瞬間に立ち会った一人。当時高校3年生だった。
「できたよ!これでいいかい」。名誉会長が白い紙を手に岡山南文化会館 (当時、岡山文化会館) の屋上に現れ、高等部の担当者に言った。
“白い紙”は、できたばかりの「正義の走者」の歌詞だった。時刻は夕方。屋上には金魚すくいなど、屋台のコーナーが設けられていた。友の真心に応え、名誉会長夫妻も浴衣を着て、居合わせた草創の同志らを励まし、役員に声を掛けていく。
「未来会だね」
やがて椅子に座ると、名誉会長は厳粛な口調で語り始めた。「僕は何百万回というほど、人に会ってきた。何百万回も診た医者は、一目見れば、患者がどんな状態か分かるでしょう。僕も同じだよ。約束を守る人かどうか、すぐに分かるんだ」「生涯、約束を破ってはいけない。僕はじっと見ているよ」
厳愛の指導だった。既に宗門問題が各地で火を噴き、広布の未来に暗い影を落としていた。名誉会長は、未来部員をあえて「大人」として遇し、どんな嵐にも折れない大樹と育つための“根っこ”をつくりたかたったに違いない。
懇談が終わり、屋上から降りていく未来会の友。名誉会長が大きな声で言った。
「また会おう!次の学会を頼むよ。お母さんによろしく」
「正義の走者」は、名誉会長の加筆を経て「未来部歌」として歌い継がれている。

(転載)