勝利島

2016年6月5日(日曜日) 沖縄勝利の朝 那覇市

今日は公明支援の沖縄県会議員選挙の投開票日です。

沖縄県議会公明党は、那覇市選挙区定数11で2名を擁立。沖縄市選挙定数5名と浦添市選挙区定数4名で、各1名の擁立。合計4名の公認を広宣流布の旗印として、支援の行動を開始した。信心の確信を各自深めながら、広宣流布の折伏の戦いを開始した。

皆が、地元の那覇市・沖縄市の支援をそこそこに、全軍が浦添市「金城ヤスクニ」の支援に戦った。告示後も、投票日前日も、また投票日には、自分の選挙区を投票・確認して、そのまま浦添市、「ヤスクニ」支援に戦った。

世論調査の動向を確認しながら、選挙当日、夕方の投票締め切りの2時間前で、新規の戦いを中心に見事、大大逆転の結果を出した。沖縄創価学会の底力を世間に「アット」言わせた!!!

一番苦戦した浦添市「ヤスクニ」、見事2位!!!

当日は、全国の会員からも諸天が舞をも舞っていた。地元の応援隊も、感じてか分からないけど、愚直までにがんばった!!!

我が地区も地区部長・婦人部長を中心に、地区史上、過去最高の結果を出した。大変におめでとう!!!!

さあ、碇をあげて出航する。

次の目的地である7月10日を、次の決勝点として、一層の戦いを開始したい。

ウォルター・ホイットマン (Walter Whitman)

民衆詩人 / ウォルト・ホイットマンウォルター・ホイットマン (Walter Whitman)

・さあ、出発しよう!悪戦苦闘を突き抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができないのだ

詩集「草の葉」より。

ウォルター・ホイットマン (Walter Whitman)

1819年5月31日 – 1892年3月26日
アメリカ合衆国ニューヨーク州ロングアイランドに生まれ、

職業は詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。

ウォルト・ホイットマンの作品の特徴は、
厳格なイギリス文化の構造を否定し、
良心における自由な精神を訴え、
アメリカの詩文化に永久的な変化を吹き込んだ。

代表作は「草の葉」

詩集「草の葉」より。

・何よりもまず偉大な「人物」を産み出すこと、あとのことはそれで確実。

・改革が必要であればあるだけ、それを成就するための「人格」が必要になる。今日すぐに始めたまえ、勇気、実在、自尊、明確、高貴を目ざして君自身を鍛えることを、君自身の「人格」を固め広めるまでは休んではならぬ。

・わたしにも、誰にも、あなたに代わって道を歩くことはできない。自分の道は自分で行くほかないのだ。

 ・君が教訓を学んだ相手は君を賞賛し、親切をほどこし、味方になってくれた人々だけだったのか?君を排斥し、論争した人々からも大切な教訓を学ばなかったのか?

・私の決心は少しも揺るがない。私は自分の詩の仕事を自分自身の方法で、最後まで力の限り続けていこう。

・最善のことを言うよりももっと善いことは、つねに最善のことを言わずにおくことである。

・情熱、それなくして人と呼べようか

・自分自身であることに、人間の偉大なる誇りがある

 ・何になるにもからだが肝心、健康でなくしてどうして宇宙とひとつになれよう。

 ・寒さにふるえた者ほど太陽の暖かさを感じる。

・人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。

 ・若い女は美しい。しかし、老いた女はもっと美しい。

 ・これから私は幸福を求めない。私自身が幸福だ

 ・もしも詩人が、すぐれた模範を世間に披露し、その一歩一歩が自己の証となるのでなければ、彼は無用の長物だ。

 ・まず自分自身のあいだから、その最良の見本を提供することが必要である。そして一人でも二人でもそういう見本を提供することによって、集団全体が千年も輝くものとなるのだ。

 ・世界中の誰もが自分を称賛しても、私は一人静かに満足して座っている。世界中の誰もが私を見捨てても、私は一人静かに座っている。

 ・演奏を聴いて思い出したと感じている音楽はすべて、あなたの内側から呼び覚まされているのだ。

・同志よ、これは本ではない。これに触れるものは、人間に触れるのだから。

 ・毎日出かけていく子供がいた、最初に目にしたもの、驚き、哀れみ、愛、あるいは恐れと共に受け入れたものそのものに、彼はなった。それはその日一日、あるいはその日のる時間、あるいは何年も、あるいは年の経めぐるずっと長い間、彼自身の一部になった。

 ・報われぬ愛はなし。これか、あれか、方法は違うが、報いられるのは確かである。

 ・あらゆる過去は後に取り残すのだ。わたしたちは一層新しい、一層力に満ちた世界へ、変化した世界の上に進出するのだ。

 ・永遠にめぐりくる春よ、三つの宝をあなたは忘れずに届けてくれる。年ごとに蘇えるライラックの花と、西空に沈むあの星と、そして愛する人の想い出を。

・おお、強敵を相手に苦闘し、不屈の敵に立ち向かい、何びとの助力も借りずにその敵と四つに組んで、おのれの性根を試してみたい。

・人に何かを与えるとき、私は自分自身をささげる。

入会記念勤行会

桜

 

栄光勝利の門出を祝福して

入会おめでとう!!!

今日は、あなたが主役です。

あなた自身の悩みへの挑戦に今日は皆がエールを送ってくれました。

次は、あなたの周りの友の為に悩める自分になるでしょうね。

それは、あなた自身の悩みが小さく感じる。

より大きな悩みや課題に挑戦する自分になっている。

これを境涯が広くなったね。と言います。

信心は心で感じて、心で耐えて、そして心で勝っていくのです。

心は見えない。

しかし信心の勝利の心は結果となって必ず、現実生活に現れます。

その為の御本尊です。

御本尊はあなたの心の鏡です。

信ずる力。祈る力が強ければ、そのままの姿で、まるで自分の心の鏡のままに功徳の結果が現れます。

苦難をバネとする信心の心は、自分自身の心を鍛えます。

日々の学会活動は自身の人間革命と境涯革命の姿となって、永遠に幸福勝利の人生の軌道に入っていけるのです。

そして、この信心は水の流れるような純粋で持続の信仰が大切です。

過去を振り返れば、勝ち戦です。

また、未来を見れば、宝の中に入っていくような人生です。

これがこの世に生まれてきた、最大の幸福です。

これを仏の大境涯といいます。

共々に戦いましょう!

そして勝ちましょう!

2015年3月31日の入会記念勤行会より

 

四条金吾殿御返事・法華経兵法事

広宣流布大聖堂 日蓮大聖人・御書全集

四条金吾殿御返事 (別名・法華経兵法事/ほけきょうへいほうじ)弘安二年十月・五十八歳御作

(現代語訳)

さきごろ強敵と争いあったことについてお手紙をいただき、くわしく拝見しました。
 それにしても、以前から、あなたは敵人にねらわれていたでしょう。しかし、普段からの用心といい、また勇気といい、また法華経への信心が強盛な故に、無事に存命されたことは、このうえなくめでたいことである。
 いったい、福運がなくなってしまえば、兵法も役に立たなくなり、また果報が尽きてしまえば、家来も従わなくなるのである。結局、福運と果報が残っていたからである。
 ことに法華経の行者に対しては、諸天善神が守護すると、法華経属累品第二十二で誓いをたてている。一切の守護神・諸天善神の中でもわれわれの眼に、はっきりとその姿が見えて守護するのは日天と月天である。それ故どうしてこの諸天善神の守護を信じないでいられようか。
 とくに、日天の前には摩利支天がいる。主君の日天が法華経の行者を守護するのに、家来の摩利支天尊が法華経の行者を見捨てることがあるだろうか。法華経序品第一の時に「名月天子・普光天子・宝光天子・四大天王有り、其の眷属万の天子と倶なり」とあるように、諸天善神は、皆列座した。摩利支天は、そこに列座した三万天子の中に入っているはずである。もしその三万天子の中にいなければ地獄に堕ちているであろう。
 結局、この度あなたが強敵からのがれられたのは、この摩利支天の守護によるものではなかろうか。摩利支天はあなたに剣形の大事を与え、守護したのである。この日蓮は、一切の諸天善神の守るべき首題の五字をあなたに授ける。法華経受持の者を守護することは断じて疑いない。摩利支天自身も法華経を持って一切衆生をたすけるのである。剣形兵法の呪文である「兵闘に臨む者は皆陣列して前に在り」の文も結局、法華経より出たものである。法華経法師功徳品第十九に、「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」とあるのはこの意である。

(解釈)

本抄は、別名を「法華経兵法事」あるいは「剣形書」といわれ、兵法と法華経の信心との関係について指導された御書である。
 もとより、ここでいわれている“兵法”とは、剣をとっての戦いの法であるが、原理はなにもそうした武力による戦いに限るのではない。
人間として、この社会に生きていくうえにおいて、経済、思想、文化の各面にわたって、不正の横暴に対して戦わなければならない場合がある。また、新しい価値創造のための努力も広い意味では“戦い”である。
 “兵法“とは、そうしたそれぞれの分野における戦い、努力の具体的方法である。その戦い、努力をいかに効果あらわしめるかは、方法論をこえた視野を必要とする
そこに、究極的には、自己の生命の開拓(人間革命) が必要となってくるのであり、それを可能にしたのが法華経なのである。
この意味において、本抄に示されている指導は、武士としての四条金吾に限定されるものではなく、時代・環境の違いを越えて、現代においても、更にあらゆる人間にとって重要性をもっていると考えるべきであろう。

前前(さきざき) の用心(ようじん) といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に
 いつ、どのような事態に直面するとも知れないのが人生である。そうした思いがけない事故にぶつかったとき、無事に乗り越えるかどうかは、まさに、この文にあげられている三つの要因を、ふまえているかどうかにかかっているといっても過言ではあるまい。
 その一つは、普段からの用心である。つねに心を配って、事故を未然に防ぐことが肝要である。それでもなおかつ防ぎえないことはある。だが、そうした普段の用心がなされた上であれば、起こったとしても、小さくできるし、賢明に対処できるのである。
 もう一つは「けなげ」つまり勇気である。これは、事故が起こってしまった場合の、こちらの心の姿勢である。
「けなげ」とは避けられないのに避けようとしたり、逃げようとするのではなく、真っ向から取り組んで、解決しようとすることである。それが結局、災厄を最小にする方法であり、この姿勢を全うした場合には、かえって災いを福と転ずることもできるのである。
 そして、これらの根底にあって大事なのが “法華経の信心” であると大聖人は教えられているのである。「前前の用心」において大切な働きをするのは、知恵である。
「けなげ」の原動力となるのは、生命の力である。この生命力と知恵を豊かにし充実させる源泉が法華経の信心すなわち南無妙法蓮華経の御本尊への強い祈りにある。

運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず
 百の努力をしても、八十の結果しか出ない場合もあれば、百の努力が百の結果を出す場合もある。あるいは、百の努力がマイナス二十の結果になってしまうこともある。個人の生命においても、調子のよい時と悪い時とがあり、さらに、人間一人一人の間に、調子よく人生を歩める人と、なにをやってもうまくいかない人とがある。
それは、人間の理解の範囲を越えたものであり、それを古来、人間は “運” 或は “運命”と名づけてきた。
 この“運命”は、いったい何によって作られ決定されているのかという点について、キリスト教では、神の意志、思召しによるとし、中国では“天命”によるとし、仏教では、その人自身の過去の行為の善悪の集積によるとする等々。
この違いがあるが、“運”というものを考える点では、東西共通のものがあるといってよい。
 それはともあれ、もし、運がもはや尽きてしまえば、兵法すなわち、いかに努力を尽くしても、期待したような結果は得られない、というのである。この場合の“運”とは、この人を幸福に導いていく方の “福運” であることはいうまでもない。
 また、果報とは、過去の行ないが因となって生ずる果であり、その善悪によってあらわれる報いである。これも、この場合は、善の方のそれをいわれていることは、もとよりである。もし、果報が尽きてしまえば家来もつき従ってこなくなる、との仰せである。この所従とは、封建社会に武士として生きる四条金吾の場合は、家来ということであるが、ひろくいえば、自分の周囲にあって守ってくれる働きをする人々をいうと考えてよい。
 したがって“兵法”が、もしその人自身の知恵、努力であるのに対し“所従”はその人をとりまく周囲の人々である。もし運がきわまり、果報が尽きれば、いわゆる正報 (自分自身の生命の働きや力)・依報 (自分を取り巻く周りの環境や人々) ともに、自分を守ってくれる働きではなくなり、すべてがカラ回りし、自分は孤立化し、破れていくのである。
 この“運”を強くし“果報”を豊かにしていく源泉が「法華経の信心」である。ということは“福運”といい“果報”といっても、どこで誰かによって作られ、与えられるものではなく、自分の努力によって、これを築いていくのである。ここに、人間の主体性を確かなものとする仏法の、他のいかなる宗教にも見られない日蓮仏法の特質があるといえよう。

一切の守護神・諸天の中にも我等が眼に見へて守護し給うは日月天なり争か信をとらざるべき
 本来、諸天善神といい悪鬼神といい、人間の環境世界のもっているさまざまな力 (エネルギー) について立てられた概念である。たとえば、太陽の力が生命をはぐくみ、この世界を明るく照らし出し、熱を与えてくれる善なる働きを日天としたと考えられる。しかし、その同じ太陽の光と熱が、あまりにも強ければ、視力を奪ったり、渇きのために生命を奪ったりする。こうした生命を奪う働きを鬼神とするのである。
 このようにして、原始時代の人々は、自然界の事象のあらゆる働きについて、神あるいは鬼という概念を立てた。そして、それらのあらゆるものは、人間が文明を形成し、社会生活を営むようになるにつれ、権力者や権力機構の働きと結びつくようになり、ある帝王が太陽神の代弁者のようにみなされたこともあった。こうして、かつては、あらゆる神が具体的なイメージをもっていたのに、時代がくだるにつれて、抽象的になり、漠然としていったのである。そのなかにあって、太陽の力を象徴する日天・月の力を象徴する月天は、その元の実在が明瞭であり、このことを「我等が眼に見えて守護し給う」といわれているのである。
 ともあれ、諸天善神というものは、決して人間が妄想によって生みだされたものではなく、現実の人間を豊かにし、生命を与えている種々の力をいう。そして、その自然的環境、社会的、文化的環境のもっている力は、主体ある人間生命の反映にほかならないとの達観から、これらの力を善なる方向へ強め、悪の面の表れるのを抑制していくのが、仏法の思想である。
現代で言えば、この正しい法を広めようとする広宣流布運動、即学会活動こそ、その生き方にあたる。

彼の天は剣形を貴辺にあたへ此へ下りぬ、此の日蓮は首題の五字を汝にさづく
 摩利支天は“陽炎”と釈されているように、太陽の強い光にあたって起こす“かげろう”と関係がある。この摩利支天が古来、武士の守護神として崇められたというのは、相手にして戦う場合、太陽を背にして相手の目を眩ませるのが有利であったこととつながりがあるようである。
 そして摩利支天が武士の守護神ということから「剣形を貴辺にあたへ」といわれたのであろう。“剣形”とは、剣を扱う術、剣の技術である。それに対し、日蓮大聖人は仏法の極理、法華経の肝心である“首題の五字(妙法蓮華経)”を四条金吾に与えられた。この“首題の五字”を受持している故に、法華経の持者を守護する摩利支天の加護があったのだと仰せである。
 このことは、信心と生活上の知恵・努力、仕事の上の技術との関係を見事に教示されているのである。信心が根底にあって、生活や仕事や技術は生かされる。
この場合は、自分の生命が奪われるか否かという非常の場面であったが故に、御本尊への信心と剣術という直接的な関係であられたわけである。
しかし、一般的な意味での仕事上の知恵、努力と信心という場合においては、信心はその人の人間的魅力、目的観、責任感などの人格としてあらわれ、更には、その人の心の境涯が偉大なるものとして確立されることによって、その人格は生活上では知恵は豊かになり、努力は大きい実を結ぶのである。
 別の観点から言えば、信心さえあれば、生活上の種々の工夫や努力は自然に与えられるという考え方ではない。
あえていうならば、四条金吾のこの場合  “剣形” を与えたのは “摩利支天” の働き(エネルギー)であって、仕事上での技術や知恵を与えてくれるのは、先輩であり、生活の知恵や工夫を与えてくれるのも、親であり先輩であり、社会である。ゆえに、これらから謙虚に学ぶことが大切である。ただ、そうして得たものをいかに自分が使っていけるかどうか。またその先輩や社会から学んだ事が正しいのかどうかの判断も、実は自分自身の生命の傾向性に影響される。
悲しいかな三毒の生命 (貪りの心・怒りの心・愚痴の心) の強い人は、自ずから、それと似た傾向の人々と縁し、自分の知らないうちに自分自身が、ますます三毒が強くなってしまう。
創価の哲学を知ると知らないとに関わらず、人間は何もしないと今の資本主義国家・弱肉強食の社会・また日本の歴史から世襲した国の仕組みとしての官僚主義になっている以上、代々に渡り三毒の強情の生命の基盤が個人にも、社会の仕組みに厳然と存在するといって良い。
であるがゆえに人間社会は自然に不幸の原因に縁し続け、その生命体は増長し続けてします。
しかし、我が創価のリーダーは決して、そういう生き方であっては断じて成らない!!!
如蓮花在水 (にょれんげざいすい) の原理の如く、蓮の華という清らかな生命は、五濁の悪世という泥沼の中にこそ、その輝きが燦然と輝くのだ。
三毒の強い世間であるが故に、それをバネに飛躍台として、自分自身を鍛える事が出来るのではないか。それに負けない生命力こそ、日々、学会活動しよう!・勤行という祈りに御本尊との対話をしよう!・まず自分の身近な一人に、この信仰の生き方を語ろう!
この戦いを決意し、行動する人こそ、「妙とは蘇生の義なり、蘇(よみがえる) 義なり」との大聖人の結論を証明する人になってくれたまえ。最後に、
結論から言うと、信心とは、創価の三代の師弟の信心である。
これを根本とする生き方と努力の中に、自分自身の生命が磨かれ、善の生き方と善の選択を自然に可能に成らしめる事が出来ると、大聖人は仰せである。
これが人間革命であり、宿命から使命への転換の姿でる。ともあれ、不幸の原因の業の薄い皮が一枚一枚はがれる落ちるように、三代の創価の師弟を勉強して、その挑戦と努力の人は、大功徳の結果として現れるのは早いよ。

 

写真・碑文の意味

大聖人の信心とは、創価の三代の師弟の信心なり。

それは三代の師弟が法華経の通りのあらゆる法難を乗り越えたことにより証明された。私と私の眷属は、従藍而青の師匠の心を、万代にわたり広宣流布・人間革命に挑戦することを誓う! 三代師弟の歴史こそ、末法万年尽未来際までの原点として。

(引用元・一部解釈を変更しています )
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1430839.html

誓いの青年(きみ)よ

♠新学会歌・誓いの青年 (きみ) よ

ある日のメールより・・・(略)

信濃町の学会本部まで行って、創価文化センターで創価の哲学と広布の歴史を学び、隣の信濃平和会館で、1時間の唱題に挑戦して、広宣流布へと戦う、人間革命の師子となって、帰ってきなさい❗️❗️❗️


一日も早く、誓いの戦いを開始しようではないか。
世界には、君を待っている子供達や友達がいるよ。
君の人間革命した勇姿を渇望して待っているんだ。
今、君が人生の転換期とすべきビジネスの成功の裏付けには、実は広布誓願にかける、人間革命運動が最短ルートなんだよ。

ビジネスを行うのも人間。
それを支え、恩恵を受けるのも人間だ。
全てが一人の人から始まる❗️

故に、君自身の人間革命なくして、人生の事業の成功はあり得ない❗️

実は、今まで論じなかったけど、君が見てきた世間の成功と違って、広布誓願への人間革命運動は、君の生命に巣食う根源的な宿命を、君自身が世界市民としての自覚に立ち「平和と幸福と。そして人類史を幸福勝利へと繁栄させる大転換への戦いを”君自身の使命の自覚”に変える事が出来る❗️
それは君に縁する一人一人に平和な社会と福運と繁栄の種を蒔くことになる。

君に縁する一人一人が「仏の縁」を強くすることにより、友の善根は、いつの日か開花するんだよ。

この人類史を大転換させる事実の戦いが、また正義が、御本尊の功徳であり、仏の生命だ。これが仏の大境涯だよ。
私達の信仰は、一人一人に人間革命を強く促している。一人の生命の中に変革を促すから、前代未聞の難事中の難事だ。

だからこそ、最高の価値がある。この戦いは苦難をあえて、呼び起こす勇気があるか、ないかだ! 君自身の一人の勇気の決意で、戦いを起こせば、その瞬間から “最高の正義”となり、自身の正義の人格を創る人間革命運動となる。

ただし、弱い正義ではいけない❗️

正義は勝ってこそ証明される❗️

過去の歴史は正義が負けたから人類の悲劇が刻印されてしまった。

20世紀の戦争の宿命の歴史から、21世紀は恒久平和の使命の歴史へ。と大転換の情熱を加速度を増していきたい。

信仰に裏付けされた「人間革命」の勝利の姿で、人生のすべてを勝ち飾って行きたい。

君には本然的に勝つ力がある❗️ 断じてある!

若くして、人の何倍も苦労し、人の何倍も苦しみ、人の何倍も悔しい思いをした君ではないか。

御本尊は、すべて知ってるよ。

あとは誓願の戦いに挑戦しよう!    私は、君のために何倍もお題目を送っているよ。父子の共戦譜は、師弟の誓いの共戦譜だ。

将来の学会員は、君の戦いを手本として、教科書として、”我が戦いを見よ!”      ”我が人生の勝利の姿を見よ!” と。

先生の「人間革命」の証明を、今度は君自身の戦いで「人間革命」に登場する君の黄金の歴史を待っている! 弟子が証明してこそ、師匠の正義が満天下に明らかになる。

「師弟」とは、弟子が勝ってこそ、師匠の存在があることを忘れまい。

従藍而青 (じゅうらんにしょう) は師匠の心だよ。

 


父より^ ^

負けじ魂、ここにあり!

スポーツの世界では、必ず勝者と敗者がいる。

勝って次の高みを目指すのだ。負けても自分に負けなければ、それ自体、勝ちに等しい。

彼は、大学3年の春に右足靱帯断裂という大怪我をした。「全国体育系学生柔道体重別選手権大会」に準優勝した後のことだった。全国一を目指すアスリートしては致命的であったに違いない。

次の年、3.11の大震災の春には卒業を控えていた。彼は、新たな希望の出発もなかった。しかし震災の時に卒業したのだ。

「いかなる困難にも断じて負けない」という誇りは更に自分を強くした。

だが、試練はそれだけには終わらなかった。

昨年の3月に、今度は左足の靱帯も断裂したのだ。この夏の「全日本実業柔道個人別選手権大会」にはエントリーさえも出来なかった。

そして、今年の夏の大会。

最初の大怪我から、3年半を過ぎた今、不倒・不屈の負けじ魂は、4回選まで、オール1本勝ち。準決勝で敗れたが「講道館杯」出場という栄冠を彼は、彼自身の手によって獲得したのだ。

表彰式には、同じく3位入賞の「野村忠宏」(38歳・五輪3連覇) 選手から先に前に行くように言われた。若い選手を育てたいという彼の人柄を感じたという。

ホイットマンは詩たった「さあ、もはやここにはとどまるまい。いざ錨をあげて船出をしよう」

次への挑戦の時は始った。

全日本実業柔道個人別選手権大会

全日本実業柔道個人別選手権大会表彰式

表彰式 (兵庫県尼崎市・ベイコム総合体育館) 右から、仲村・野村(3位)、石川(優勝)、矢野(準優勝)  2013年8月31日

東北の皆さまへ 断じて負けるな

3.11 あの日より1周年の節目にて

♪ 青葉の誓い(東北の歌)

一年を十年の価値ある人生に 生きる人もいる。

「一生 空しく過して 万歳 悔ゆる」人もいる。

人生は 今日も 行きゆく以外にない。

否 生き抜くことが 人生だ。

多くの人間と 共存状態を保ちながら

生活し そして社会にあって

それぞれの歴史を創りながら

共同体として存在し 生き抜いてゆくのだ。

人生には逃げられない道がある。

それぞれの 宿命を持つ自身であり

未来もまた 明確なる保証はない。

生き抜く 老いゆく 病なり そして死する

人生の流転の その明白なる解答は

誰人も与えてくれない。

この諸行無常の生老病死という現実は

強制的なまでに 厳しく一生を 貫き通している。

 

願望 そして欲望 さらに 変化しゆく矛盾

ただ苦痛がなくなると 愉快なだけなのであろうし

愉快さが 幾度となく繰り返されると

倦怠になって やがてまた

苦痛に変わってしまうものなのだ。

ゆえに自分を取り巻く外界(がいかい)の世界と

自分自身の内なる世界とが 一体不二の法則に則るときに

人生は確実に 平和的な常楽の場所を

提供してくれるに違いない。

絶望の彼方に横たわる友に 光あれ!

友よ 立ち上がれ!

君の未来には 天使のごとき幸福の鐘が

満ち満ちていることを 忘れるな!

誠実の人間たれ 勇敢なる人間たれ

そして勝利の人生たれ!

烈烈たる人生王者の 自分の魂を

使命の魂と 深く結び合わせながら

断固として 勝ち誇る人生たれ!

 

わが友よ 頑張れ!

わが兄弟よ わが姉妹よ 頑張れ!

いかなる失敗があっても

断じて立ち上がり 前へ進むのだ。

有名が幸福ではない

無名の英雄が 幸福であり

偉大であるのだ。

君を 負けるな!

君は王者のような才智と

無限の智慧の力の権威を

持っていることを 忘れまい。

 

我らには 哀しみなどはない。

我らには 敗北もない。

我らの彼方は 常に

幸福の鐘が 希望の鐘が

鳴りやむことはない。

いかなる 厳しい試練があっても

我らは すべてを勝ち超えゆく

無量の黄金よりも貴重な

無限の力を持っている。

目にはみえないが

満々として 言葉もなく

常に煌煌と 鋭く響いている。

我らは負けない!

君よ 今日も 元気を取り戻せ!

 

あの美しい 満天の星のごとく

勇気に満ち 希望に溢れ

勝利に溢れゆく 栄光にふさわしき

人間王者の威厳に満ち満ちて

常楽我浄の王宮の扉を開き

笑みを湛えながら

わが人生の流転を 進みゆくのだ。

我々が信ずる力は 臆せず動ぜず

悠然と安座して 慈光に包まれ

必ず忍耐の彼方に大勝利の賛歌が待っている。

世界桂冠詩人「人生の流転より」

 

宝ものの君たちへ

心は、上手な絵描き

「桜梅桃李 (おうばいとうり) 」 という言葉

があります。

桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李。

だから、素晴らしいのです。

 

自分の良い面を伸ばしていけば、

欠点は隠れるという事です。

例えば、「短気」は何をやっても速くて「スピーディー」だという長所にもなる。

「おとなしい」性格は「みんなの和をつくる」長所にもなる。

「感情の起伏の激しい」性格は「情熱的」になる。

「大雑把」な性格は「大らか」になる。

「神経質」な性格は「こまやかな」心配りになる。

性格が人生を決めるのではない。

性格を、「どう生かすか」で決まる。「どう生きたか」で決まるのです。

どんな性格であろうと、自分らしく、

「誠実に生きていこう!」 と決めて頑張っていけばいいのです。

読書も 「やりきった!」 という努力が自信になる。

そうやって大地に足をつけた人は、人が認めてくれようが、くれまいが、

そんな事は 「小さなこと」 だとわかるのです。

自分で自分を認めてあげれば、それでいいのです。

仏法では、「心は、上手な絵描きのようなものだ」 と教えています。

自由自在に、理想的な「自分の未来」をデッサンし、肉付けをし、色づけをして、

やがて「現実」のものにしていける。

そういうすごい力が心にはあるのです。まして、君たちには「ご本尊」がある。

「こうなりたい」 というイメージをしっかりと描き、抱きしめて、祈り抜き、

努力していけば、必ず、自分の思い通りの生き方を歩めます。

以前にも書いた通り、御書には、

「心こそ大切なれ」

「心の財、第一なり」

「志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」等々と、何度も何度も、

「心」で耐え抜く。「心」で開く。そして「心」で勝つと教えています。

自分と友達について

「桜梅桃李 (おうばいとうり) 」 の別の意味は、友達との友情も教えています。

友人というのは、君を映し出す 「鏡」 です。

学生時代からの友もいれば、社会に出てからの人脈で築く友人もいる。

「自分が誠実で変らない」これが友情です。「自分で決まる」という事です。

相手の態度ではなく、自分の態度が大事です。

「相手が自分の事を思ってくれる」から友情ではない。

「相手が裏切らない」間だけ友情が成り立つものでもない。

「自分が相手を思う」からこそ友情なのです。たとえ相手にうらぎられても、

「自分は裏切らない」から友情なのです。むしろ相手が苦しい立場にいる時ほど、

自分だけは、その人の味方になってあげる。

その勇気が友情の心です。

例えば、竹は、一本一本が天に向かって、真っ直ぐ伸びている。

他の竹に寄りかかったりしていない。

但し、地下の根っこ(地下茎)の部分ではがっちりと繋がっているのです。

人間も同じで、一人一人は自立しています。真っ直ぐ生きていく強さを持っている。

でも、「心は繋がっている」それが友情です。

全て仏法の生き方なのです。

 

良書をとの語らい

良書との語らい

心の大富豪の君へ

「読書の喜び」を知ってる人と知らない人

とでは、人生の深さ、大きさが、

まるっきり違ってしまいます。

一冊の良書は、

偉大な教師に巡り合ったと同じです。

読書は人間だけができる特権であり、

いかなる動物も読書は出来ない。

自分の人生は一回きりだが、読書によって、

何百・何千のほかの人生に触れることができるし、

2千年前の賢者とも、お話が出来ます。

多くの偉人は必ずと言っていいほど若い時に「座右の書」をもっていた。

それは、自分を励まし、リードするとともに、自分の親友であり、師匠と言える。

しかし、読書もそれなりの努力・挑戦・忍耐があって、

初めて「喜び」がわかってくるのです。いったん、その喜びを知った人は強い。

「本が友だち」になった人は強い。なにしろ古今東西の精神の「宝」を、

自由自在に味わい、くみ取り、使いこなしていけるのだから。

その人こそ、「心の大富豪」です。

人生の時間には限りがある。ゆえに、良書を読む事です。

良書を読む時間を作るには、悪書を読まないようにする以外ない。

悪書は、自分の心の中に、地獄というこれ以上のない最悪の苦しみや

餓鬼という貧欲な感情、畜生という愚痴の心、

修羅という怒りの命を湧きいだせる内容であり、

卑しい悲劇をもたらす、毒薬・麻薬のようなものです。それに対して、

良書は、幸福の向上と、知性と創造の方向に命を導き、

思想・人生を建設する健全さがあるのです。

どんなに読んでも、勉強しても、「もうこれで良い」とは言えない。

21世紀の大樹 (だいじゅ) となるべき君たちです。

今のうちに、どれだけ「心の大地」を読書によって耕したか。それで決まってしまう。

十分に耕され、養分を豊かにもった大地であれば、大樹は、いくらでも伸びていける。

みんな自分の中に無限の「可能性の大地」をもっている。

その大地を耕す「鍬(くわ)」が読書なのです。今の若い時に、

良書を読む習慣を作るべきです。そうしないと人生の後半になって、後悔してしまう。

自分は、精いっぱい読書に挑戦しきった。

「もうこれ以上読めない」「もうこれ以上勉強できない」。

そう言い切れる20代の青春であって欲しいのです。

未来を拓く君たちへ

沖縄の青い空

信仰の基本について
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勤行・唱題(ごんぎょう・しょうだい)

勤行は、毎日の心の掃除です。

心の用意です。

一日の出発のエンジンをかける事です。

女の人が毎朝、

お化粧をするようなものです。

人によっては大きなエンジンを持ってる人がいる。

エンジンの大きさによって、人生の一生の行動が変ってくる。大きな違いです。

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勤行・唱題という行(ぎょう)に励むことは、

自分自身のエンジンを大きくしているのです。

また、勤行・唱題は、自分自身と大宇宙とが交流しゆく儀式なのです。

ご本尊を根本として、自分という「小宇宙」の中に「大宇宙」の生命力を、

生き生きとくみ上げゆく作業が勤行です。それを毎日繰り返していけば、

生命力のエンジンが強くなってくる。

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日蓮大聖人は「一遍の題目にも、限りない功徳がある」と言われている。

いわんや、真剣に勤行・唱題を続けたら、どれほど素晴らしいか。

全部、自分自身のためです。義務ではなく、権利です。

また、勤行という行に励むということは、

毎日の「心のトレーニング」です。

自分自身の生命を清浄にし、エンジンをかけ、

願い通りの軌道に乗せていくことができるのです。

心身ともに回転を促し、リズムを整えていくことです。

いちばん苦しんだ人が、いちばん幸福になる。

いちばん悩みを持った人が、いちばん偉大な人生となっていく。

これが仏法です。だから素晴らしいのです。?

悩みといっても、いろいろある。自分のこと、将来のこと。また身近な家族の事もある。

更には、友達のことについて悩みになるかもしれない。

或いはもっと大きく世界の平和をどうするか、新世紀をどういう方向に持っていくか

・・・これは偉大な悩みです。

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どんな悩みも、全部、題目によって、自分のガソリンに変わる。

生命力に変わる。人間性に変わる。そして福運に変わるのです。

だから悩みが大きいほど、困難が大きいほど、多いに題目を上げきって、

成長していけばいいのです。全てを大転換さて行く事ができるのが、この仏法哲学です。

?すべての人に、自分でなければできない、自分の使命がある。

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使命がなければ生まれてきません。

例えば世界には、たくさんの山がある。高い山、低い山。

世界にはたくさんの川がある。長い川、短い川。

しかし、みな山であり、みな川であることには違いはない。

穏やかな万葉の奈良の山もあれば、勇壮な阿蘇ある。

壮大な白雪のヒマラヤもあります。それぞれに美しい、味がある。

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川も、鮭の故郷となる石狩川もあれば、詩情の千曲川もある。

対岸が見えない大黄河があり、アマゾン川もある。

その川にしかない魅力がある。

これと同じように人間もまた、それぞれの使命があって存在するのです。

いわんや若くして、妙法に縁した君たちです。君には君でなければ出来ない、

君の使命がある。そう確信し、誇りを持つのです。

題目をあげて、「目の前の山を登れ」。

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登った山頂から、もっと広い人生が見えてくる。

自分だけの使命もだんだんと、わかってくるのです。

「使命があるのだ」という事を忘れない人は強い。

どんな悩みや困難に直面しても、負けない。

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悩みや困難を全部、希望のエネルギーへと変えていけるのです。

これが信心の大功徳となって、君自身に現れます。

これを確信して、全てに挑戦してゆく青春を送って下さい。

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