次の1,000年へ

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今、2016年春3月。

22世紀(2,101年)まであと85年。

今の学会創立85周年の折り返し点にあたる。

今思えば、牧口先生が、戸田先生が、師弟で創立した学会が、85年の短期間で、今日の世界宗教として、また生命尊厳の哲学が、ここまで世界に広まったと、誰が想像したであろうか。

池田先生は、2000年の春、次の1000年へ、新たな歴史を創れと言われた。

学会は、今年が黄金の3年の総仕上げの戦いとなる。この85周年の今が、実は22世紀の新たな歴史を作る原因の戦いになるであろう。

師弟不二の御文「在在諸仏土常与師倶生」とは、自分自身の信心の境涯で覚知するしかない。

この境涯に生き切る人生を、最高の幸福として、また無上の誉れとして勝利の人生を証明していきたい。

広宣流布という無上の使命を抱いて、我らは「勝つため」に生まれた! 

そして「師とともに」戦い勝つ!これが師弟の約束です。誓願です。  

「在在諸仏土常与師倶生」とは三世永遠にわたる師弟不二の広布大願のドラマにほかなりません。

 

<御文の参照>

「在在諸仏土常与師倶生」ざいざいしょぶつどじょうよしぐしょう

法華経の最大のテーマは、「師弟不二」です。

その法華経化城喩品第7の文で、
「在在《いたるところ》の諸仏の土に 常に師と倶《とも》に生ず」(法華経317㌻)と読みます。
あらゆる仏の国土に、師と弟子が常に倶に生まれ、仏法を行ずる。
すなわち、師弟の因縁は今世だけでなく、永遠にわたることを明確に示しています。

池田名誉会長講義 御書と師弟 

(2009.8.13付 聖教新聞) 第22回 三世の勝利劇㊤ 師弟の宿縁は永遠なり

御聖訓 「過去の宿縁追い来って  今度《こんど》日蓮が弟子と成り給うか  釈迦多宝こそ御存知候らめ  「在在諸仏土常与師倶生」  よも虚事候はじ  (生死一大事血脈抄、御書1338㌻)

恩師と出会い62年  仏法の師弟は永遠不滅です。私は「月月・日日に」、恩師・戸田城聖先生と前進していま す。

師弟は一体です。同じ目的に向かって、同じ責任をもって、同じ戦いをしていくのです。

毎朝、私は胸中の先生にご挨拶し、「きょうも一日、弟子は戦います! 勝ちます!」と お誓い申し上げて出発する。

不二の一念で、全国、全世界の広布の指揮を執り、夜には一日の勇戦の結果を先生にご報告申し上げる。

その連戦が私の毎日であります。  恩師と出会って62年。行住坐臥、私は常に先生と一緒で戦い抜いてきました。恩師は、私の血潮の中に厳然と生き続けておられます。今世も一緒であり、三世にわたって一緒です。

戸田先生と初めてお会いしたのは、東京・大田区の座談会です。昭和22年(1947年)の8月14日、木曜日の夜でした。
先生は47歳、私は19歳。

私は、先生に質問申し上げた。  「先生、正しい人生とは、いったい、どういう人生をいうのでしょうか」  先生は私の目をじっと見つめ、答えてくださいました。

人間の長い一生には、いろいろな難問題が起きてくる。人間、生きるためには、生死の問題を、どう解決したらいいか──これだ。これが正しく解決されなければ、真の正しい人生はない」  「生死」という人類の根本問題を解決するには、仏法の信仰しかない。この大確信を先生は、名もない一青年に諄々と語ってくださったのです。

この出会いから、私の師弟不二の闘争は始まりました。私が戸田先生にお仕え申し上げたのは十年余。
しかし、この10年で、100年にも、1000年にも匹敵する薫陶を受け切ったと自負しています。

最蓮房への御金言  今回拝する「生死一大事血脈抄」の御聖訓は、師弟という仏法の真髄を明かされていま す。

「過去の宿縁追い来って今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ」(御書1338㌻)  ──あなた(最蓮房)は、過去の宿縁に運ばれ、今世で日蓮の弟子となられたのでしょうか。釈迦仏・多宝如来の二仏こそがご存じでありましょう。法華経化城喩品の「在在諸仏土常与師倶生」の経文は、よもや嘘とは思われません──。

本抄は文永9年(1272年)の2月11日、大聖人が流罪の地・佐渡で、門下の最蓮房に与えられた法門書です。

最蓮房は、天台宗の学究ですが、何らかの理由で佐渡に流罪された人物とされます。大聖人の法門と御人格にふれて、帰依しました。  教学の素養を具えた知性派であり、しかも熱い求道の心に燃えた門下でありました。

この「生死一大事血脈抄」や「諸法実相抄」など、仏法の極理を明かされた重要な御書を、数多く賜っています。  流罪の地・佐渡で出会い、共に大難にあいながら、弟子の道を貫く覚悟をもった門下。まさに不思議なる縁の師弟であります。

その最蓮房を、大聖人は最大に讃え、「在在諸仏土常与師倶生」の経文を示されたのです。

これは、法華経化城喩品第7の文で、「在在《いたるところ》の諸仏の土に 常に師と倶《とも》に生ず」(法華経317㌻)と読みます。  あらゆる仏の国土に、師と弟子が常に倶に生まれ、仏法を行ずる。

すなわち、師弟の因縁は今世だけでなく、永遠にわたることを明確に示しています。

法華経の最大のテーマは、「師弟不二」にあるといっても過言ではありません。  弟子たちを、いかに自身と同じ不二の仏の境涯に高めるか。また、そうなれる力があることを、どう弟子たちに悟らせるか。ここに、師・釈尊の深い慈悲と智慧があったのです。

仏の「三周の説法」  法華経では、そのために、弟子である声聞たちの機根に合わせて、①法理②譬喩③因縁という三つの視点から「師弟不二」の教えが説かれております。

声聞・縁覚の境涯でとどまってはいけない。皆、師匠と同じ仏菩薩の境涯を得られるのだ。この「師弟不二」の成仏の教えを三度にわたって周《めぐ》り説いたので、これを「三周《さんしゅう》の説法」と呼びます。

師匠は、弟子が生命の勝利を勝ち得るまで、繰り返し、粘り強く指導を続けるのです。  「在在諸仏土常与師倶生」の文は、この三番目の説法(因縁周)で語られます。  すなわち、仏と衆生の「因縁(原因とかかわり、いわれ)」は今世だけではない。過去世の修行時代から長遠の間、続いてきたことを説いているのです。

──三千塵点劫もの昔、私(釈尊)は大通智勝仏という仏の16番目の王子として活躍していた。仏と同じく法華経の教えを弘め、民衆を救ってきた。今、私の教えを聞いているあなた方は、遠い過去に王子であった私と因縁を結んできたのです──と。そこで明かされるのが、この「在在諸仏土常与師倶生」の教えです。

師弟の宿縁は永遠なり!  釈尊の説法を聞いた弟子たちは心から驚嘆し、そして随喜した。「師弟不二」という深遠《じんのん》なる境地を、法理でも譬喩でもなく因縁を説かれることによって生命の底から実感し、信ずることができたのです。  最蓮房も、当然、この経文のことを知ってはいたでしょう。しかし、それをわが生命に即して深く会得するためには、偉大なる師匠との全人格的な交流が必要だったのです。

経文に、よもや嘘があるはずはない──。この仰せに、最蓮房は大聖人との深き宿縁を確信したに違いありません。  如来の金言は絶対です。ところが、凡夫の浅い境涯では、その境地をなかなか信じることができない。時には遠いお伽話のように感じることもあるかも知れない。  しかし、法を体現した師匠の広大無辺な境涯にふれるならば、生き生きと実感し、如実に体得していけるのです。

師の慈悲は、弟子が思っているよりも、遥かに深く大きい。弟子の小さな境涯のカラを打ち破り、より高みへと引き上げてくださる存在が、師匠なのであります。 仏法は庶民が主役  釈尊の教えを聞いた弟子の大多数は、仏との深い「因縁」を聞いて発心した人々であり ました。

師匠の人格、師匠の慈悲、師匠の境涯を命で感じ取り、心から尊敬して、師の教 え通り、ひたぶるに実践する人こそが、直系の門下といえる。  最優秀の最蓮房でさえ、机上の学問で得た「理」を突き抜けて、師匠の大境涯から発せられた法門への「信」によって、仏法の極意を会得していった。

仏法は、どこまでも「以信代慧」(信を以って慧に代える)です。肩書や学歴などは、信心とは関係ない。

仏の金言を強盛に信じ抜く力(信力)、行じ抜く力(行力)によって、人生の勝負も幸不幸も決まるのです。

日蓮大聖人の仏法は、一部のエリートのためのものではありません。どこまでも、無名にして勇敢なる庶民が主役である。

戸田先生は「創価学会の大地は、全民衆から盛り上がる力に満ちている」と宣言されました。  真剣に信心に励み、広布へ戦う真面目な民衆を見下したり苦しめたりする者は、大謗法である。仏罰は厳しい。  戸田先生は今回の御文を講義され、教えてくださいました。

「師匠と弟子というものは必ず一緒に生まれるという。この大聖人様の御言葉から拝すれば、実に皆さんに対して、私はありがたいと思う。約束があって、お互いに生まれてきたのです」

これこそ師弟の「約束」です。 師とともに勝つ!

戸田先生は、戦後、学会再建の第一歩の座談会でも、この「在在諸仏土常与師倶生」の経文を踏まえて、殉教の師・牧口先生と共に、三世永遠に戦うご決意を、烈々と師子吼されました。

大聖人は最蓮房に「我等無始より已来《このかた》師弟の契約有りけるか」(御書1342㌻)等、たびたび「契約」という表現を用いられています。

世法の次元においても「契約」という言葉には重みがあります。いわんや、仏法上の「契約」です。それは、絶対に違《たが》えない仏の約束ということです。

しかも、仏法の「師弟の契約」は、今世限りの関係ではありません。

師と弟子が、ともに大難を受けながら、命をかけて仏国土の建設のため、人類の宿命転換のために戦う。その実像の中に、過去から未来へと続く久遠の生命の栄光が、凝結しているのです。

広宣流布という無上の使命を抱いて、我らは「勝つため」に生まれた! 

そして「師とともに」戦い勝つ!これが師弟の約束です。誓願であります。  

「在在諸仏土常与師倶生」とは三世永遠にわたる師弟不二の広布大願のドラマにほかなりません。

 

 

さあ出発しよう! 悪戦苦闘を突き抜けて、決められた決勝点は取り消すことは出来ないのだ。

私が22歳の時です。今も、語り継がれる「第一回信越男子部幹部会/立川文化会館にて」

さあ出発しよう。悪戦苦闘を乗り越えて、決められた決勝点は取り消すことは出来ないのだ。

このホイットマンの一節を通して、全男子部の会員は生涯の指針にしたに違いない。

それは会長勇退の1年前の昭和53年2月19日であった。

当時の先生は仏法3千年の歴史の中で、ここまでも先生個人に対する妬み・迫害を衣の宗門からの受け、それが会員に罷り取られることに心が張り切れる思いであった。全学会員を退転させてはならない。との先生の激闘に次ぐ激闘の連続であった。

近い将来を見越して、騙された学会員が退転してはならない。断じて宗門の魔性の虜になってはならない。

正しくこの迫害の法理は法華経の予言通りではないか。学会が正しい証拠ではないか。開目抄の一節「誠の時を忘れてはならない」と。

またこの昭和53年の1年で、先生は全国の同志に県歌・方面歌を30曲も作った激励の年でした。私の指揮が足腰が奪われても、この歌を歌って共に励まし、共々に生きて生きて生き抜いてくれと。

 

信念と努力

君の信念と努力が報われる為には、

君の信念

正しい人生の軌道を知らねばなりません。

みんな幸福を欲して、ひたすら努力しながら、世の中には不幸に泣く人のいかに多いことか。

それは生命の因果の理法を知らないからです。

生命の法理に即してこそ、信念は輝き努力は実を結ぶのです。

では生命の法理とは何か。正しい人生の軌道とはなにか。

それは誰人でも唱えることの出来る”南無妙法蓮華経”の題目を唱える生き方です。

簡単なようで、実は一番大切であり、それが根本中の根本なんです。

その唱題を持続出来る人は、磁石が鉄を吸い寄せるように福運がついて来ます。

獅子吼のごとき唱題は、自分自身の生命の中に無限の力を湧き出だします。

それを”仏の生命”だと仏法は教えます。

題目を唱える自分の生命が、仏の生命と現れます。

その生命が「自分の信念と努力の生命」と共鳴するのです。

これが正しい人間の生命の軌道です。生き方です。一切の願いが叶います。

 

 

師子王の心

師子吼

師子王の心とは、一言でいえば、

先生の琴線に触れるという事です。先生の心のひだ、心を感じるという意味です。

師匠の心こそ、師子王の心そのものです。

自分の心を先生の心に合わせて戦う広布の姿の中に、自分自身が師子王の心となれるのです。

御義口伝(おんぎくでん)に伝(いわ)く、

「第五作師子吼 (だいごさししく) の事」の中に師子吼とは南無妙法蓮華経の題目を師匠が受けた妙法と、弟子が授かった妙法を、師弟共に唱える音声(おんじょう)である。とあります。作 (さ) とはおこすと読むなり、です。行動を起こすという意味です。

師匠と弟子が一緒になって唱える音声。これを師子吼と表現されました。

その音声。南無妙法蓮華経の題目を師弟が一緒になって共々に、広宣流布の戦いを起こすのです。「声、仏事を為す」は、祈りの信心から発する一切の音声です。誓願の祈りから発する折伏の声です。

「誓願の祈り」とは人類に “この妙法を広宣流布しよう” というの大きな願いです。この生命に含まれる”大きな願い” の中には自分自身の一切の願いも全て含まれるのです。これが師子王の心で戦った姿と言える。

ゆえに、「広布大願の誓い」を、君自身の祈りと行動に移す時、自分自身の小さな祈りは全て叶うのです。

 

 

※御義口伝・・・・・後継の弟子に指名された日興上人が、日蓮大聖人の口述された講義・指導を後世の為にメモした内容を口伝(くでん)として集大成したものです。大聖人の御書と合わせて、大聖人の遺言として現代に伝わっています。

 

希望に生きよ! 自らが希望の存在として輝け!

希望に生きる、人生の勝利者 たれ!

日蓮仏法の信仰は、ひ弱な「心の慰め」ではない。

自分で、挑戦すべき「山」をつくり、「山」をつくって乗り越え、

また次の「山」をつくって乗り越えていく。

乗り越えるたびに、もっと強く、もっと大きな自分へと人間革命していく。

これを、その人の持つ境涯 (きょうがい) という。

 

そのための源泉はなにか。

それは自行化他 (じぎょうけた) に亘 (わたり) ての題目に他なりません。

題目は蘇生の源です。ありとあらゆる自らの悩みや課題、

また目標を実現できる偉大な力があります。

例えば、「夢こそ力」です。「希望こそ力」です。

人間は「絶対にこれだけはやりとげるんだ」という固く決意したら、

たいていの事はできるものなんです。

本当に、心から「こうしたい!」「必ず、必ず、やりとげてみせる!」

と決意できたら、半分はできたようなものだ。

反対に、中途半端な決意では、何もできない。川がある。橋がない。船もない。

「渡りたいな。だけど無理だな」。

そう思ったら、その時点で終わりです。永久に渡れない。

「橋がない。じゃあ、橋を架けよう!」

「船がない。じゃあ、船をつくろう!」

「橋もできない。船もできない。じゃあ泳いで渡ろう!」

「泳げない。じゃあ、泳ぎを覚えよう!」この意気です。

 

 

時代まますます、混迷の度合いを深めています。

病気の悩みもあるだろう。将来の生活の不安もあるだろう。

世界の経済をはじめ、それから発生する個人の生活も、不安を増長するばかりだ。

いつになったら、時代に明るい希望の光が見えるのか。

為政者どもが作り出した長引く不況などは、自分さえよければ人の犠牲はかまわない

との結果です。その三毒 (貪り・愚か・怒り) の究極たる悪魔の発想は、

21世紀の現代も続いています。識者の警告は、微力にさえ感じます。

 

 

この困難な時にあたり、今ほど希望の哲学を訴えなければならない。

その解決の突破口を開かなくてはならない。

それは、どこまでいっても、一人ひとりの対話による友の心の扉を

開かなければならない。祈って、動いて、書いて、話して、

友の心に生涯、平和の砦を築かなければいけない。

だまっていたり、何もしないと、結局、正義とは真逆な悪魔の生き方に味方してします。

大事なことは君が、自分が、悪魔のほうにつくか、正義の生き方を選択するか、

二つに一つしかないのです。

中途半端は、 ” 悪の権威と官僚機構 ” が社会には出来上がっている故に、

本人の意思に反して、結局、悪魔の思想に利用されているだけなのです。

それに打ち勝つには、正義の哲学が必要です。

その究極な正義とは何か、

それは自他共 (じたとも) の幸福の実現とそれを可能ならしめる行動としての哲学です。

自他共とは、自分と他人と共に!という事です。

私たちは自分以外やほかの人も家族があります。同じ人間です。

「君が憂いに、我は泣き、我が喜びに君は歓喜する」この同志愛であり、

共に同苦し、共に苦楽をともにする生き方です。

沖縄には、「人の苦しみに胸が痛くなる」という感情があります。

これは、決して憐れみや同情ではありません。

仏法では『同苦』と言う。相手と同じ苦しみを自分の心で感じるという意味です。

心が感じるから、ひとりの人間を一切、差別はしないのです。

この同苦という仏法の思想と沖縄の文化は全く、同一なのです。

学会の組織でも、人や、他の組織との比較はすべきではありません。

この日蓮仏法の信仰の目的は、自分自身がそして、その一族が、まわりの人々が、

絢爛たる大功徳の境涯を開いたかどうかに帰着します。

それを人類規模に広めようとしています。

世界広宣流布の目指すべき姿は明確なのです。

その為には、自分がどう戦ったか、昨日よりも、今日の戦いに悔いはないのか、

比較するのは、自分自身なのです。これが信心の強い生き方なのです。

そして正義の哲学の究極は何か、その結論は、「広宣流布に生き切る学会活動」です。

この戦いの中で、人材は見出され、逸材は台頭してきます。

まるで原石のダイヤが信仰の感動に触れて、勇躍歓喜し、時代を拓く

リーダーとしての成長してくるのです。

この学会活動の鍛錬は、「心に師」を抱いての鍛錬です。

「先生なら、どういう手を打つ?先生なら、どういう激励をする?」と

常に思考を重ねていかなければ、真剣勝負の鍛錬にはなりません。

心に題目を唱えながらの学会活動の姿は、知らず知らずのうちに、

自分自身の境涯を高めます。御本尊は見ています。

常に模範の一兵卒である人こそ、民衆の中に入っていけます。そして戦えるのです。

その人こそ、確たる自分を創ります。

組織の役職の上下関係からの指示は、日蓮仏法の心ではありません。

どこまでも、信心強き一対一の対話の中でしか、

確かな師弟のくさびは打ちこめないのです。

そして最も大事な事は、決して弱い正義ではいけない。

過去の歴史では、正義が敗れた故に悲惨な戦争や慟哭の苦しみがあった。

正義は勝ってこそ、満天下に宣揚できるのです。

創価学会も、今は第6代原田会長です。

これから、第7代、8代と続くでありましよう。

しかし、いかなる時代になろうとも、第3代の池田SGI会長の思想を宣揚してこそ、

更なる「末法万年尽未来際」(まっぽうまんねんじんみらいさい) にわたる、

広宣流布の流れは確実になるのです。この一点は大事です。

もしも将来、第3代会長の思想に、異を唱える学会幹部が出てきたら、

青年時代に薫陶をうけた生命から迸り出る情熱で、強く呵責して下さい。

 

大聖人は、最も迫害を受けた佐渡流罪期に、後世に伝えるべき重要な御書を残しました。

その弟子たちの受けた熱原の法難を契機として、末法流布の為の「大御本尊」を認めた。

そして、現代にあっても、第3代の会長がありとあらゆる難を受けた。

先生が会員のかわりに一切の難を引き受けた。

この厳然たる事実が創価の誉れであり、仏法証明の歴史なのです。

故に、法華経の経文通りの大功徳が創価学会にはあるのです。

初代、2代、3代にわたる会長の、妙法流布の戦いを起こした革命のロマンを、

その恩を、断じて忘れてはならない。

創価の父、牧口先生は、ある一面で大善生活と言われた。

2代戸田先生は、人間革命を叫ばれた。

そして、3代の池田SGI会長は、それを生命の尊厳へと高められた。

ここで、創価の哲学は完成したのです。世界は生命尊厳の思想を希求しています。

だからこそ、世界宗教として創立100周年には絢爛たる創価の哲学が、

池田先生の思想で、広宣流布していく時代に入ったのです。

時代は拓かれた。

あとはそれを託す青年の成長と結果を大樹と仰ぎ見る思いで待っています。

まさしく池田思想を広めゆく、師弟誓願の題目と自行化他 (じぎょうけた)

に亘 (わたり) ての題目です。

「南無妙法蓮華経」と唱える題目は、

自分という小宇宙を妙法という大宇宙のリズムに合致させているのです。

その題目の音率は、力強い生命力の雄叫びです。

獅子吼の音声こそ、唱題の音率です。

白馬が颯爽と草原を駆け抜けるが如く、力強い音率で、心ゆくまで唱えゆくのです。

そして、それは死の瞬間まで命の限りあるまで、生涯唱えぬくのです。

生命は、過去、現在、未来と、三世まで永遠に続きます。

今の自分が未来の自分を創ります。「いよいよ!」「さあ、これから!」の意気です。

信心の力、題目の力は無限です。

人間が、だれでももっている「希望の力」を

無限大に拡大し、増幅する力が、題目にはあるのです。

 

師匠の祈りは、広宣流布の大将軍の祈りです。

師匠は、将の将たる仏の生命での指揮を取っています。

その祈りに同じ決意で唱える題目は、師匠の仏の生命の琴線にふれます。

そして師匠の祈りは、わが弟子よ、私以上に成長せよ!と。

もったいなくも有難い存在です。

ゆえに、師匠と同じ決意で立ち上がった時、

仏と同じ智慧と勇気が、師匠の生命が、私たち弟子の生命と共鳴して、

仏である師匠と同じ力が発揮出来るのです。

そして、題目を唱えながらの折伏としての行動は、自他共の幸福です。

自分の友も、そして私も。全く同じ幸福の境涯を拓くのだという行動です。

個々人は、宿命や課題も当然違います。それが異体同心 (いたいどうしん) です。

共々に、一生涯、境涯革命 (きょうがいかくめい) に挑戦するのです。生命は永遠です。

革命のロマンを語り合った友や、一緒に戦った友との今生の思い出は、

未来世までも、縁深く続いていくのです。

これが希望の生きる人生の勝利者です。

 

2012-1-2