断じて忘れるな学会精神を1

断じて忘るな学会精神を

未来を拓く君たちへ part 3

創価学会の創立は昭和5年、1930年の11月18日牧口先生の教育思想を集大成した

「創価教育学体系」第一巻の発刊日をもって、創立の日としました。

牧口先生は、32歳の若さで、大書「人生地理学」を発刊した大学者でした。

それは、中国からの留学生たちも即座に翻訳に取り組む名著でありました。

その後、五回にわたって各小学校の校長を歴任され、

その教育現場での最前線での激務が本を執筆する時間を奪っていたのです。

しかし寸暇を惜しんで先生が書きためた珠玉の思索メモは、

優に数巻の教育書を成す、膨大な量となっていたのです。

ある寒い晩、牧口先生は、戸田先生の家で、火鉢を囲んで語り合われました。

その時、教育の混迷を憂う師匠、牧口先生は、弟子、戸田先生に、

次のように言われました。「現場の小学校の校長として、自らの教育学を世に問いたい」

との切望を口に出されました。

しかし資金の手当てのないことに躊躇 (ちゅうちょ) する師に、

若き弟子戸田先生は、声を強めました。

「先生、やりましょう。お金の事は、私が全部、投げ出しますから、やりましょう!」

弟子は真剣だった。そして

「牧口先生の教育学は何が目的ですか」 「それは価値を創造することだ」

「では先生、創価教育、と決めましょう」と。

その「創価教育学体系」の出版に向け、若き愛弟子、戸田先生は私財を投げ打って、

師匠、牧口先生の学説の完成と普及に向けて、

弟子が自ら申し出て、全力を捧げて世に問うたのです。

牧口先生59歳の時です。その弟子、戸田先生は30歳です。

『創価』とは、この師弟の不二の呼吸から、燦然と誕生したのです。

学会は、初代から二代へ受継いだのではなく、最初から、師弟で築きあげたのです。

このお話は、戸田先生は幾くたびとなく、池田先生に聞かせてくださった。

戸田先生は「俺とおまえも同じだな」と笑顔であった。と

牧口先生はその「創価教育学体系」の出版2年前の1928年、昭和3年に、

日蓮大聖人の仏法を知りました。57歳の時です。

「言語に絶する歓喜を以て殆ど六十年の生活法を一新するに至った」と語られました。

牧口先生の切望であった大善生活は、

大聖人の仏法の生き方と完全に一致していたのです。

そして教育改革を仏法に基づく生活革新運動へと展開しました。

仏法は、永遠に「仏」と「魔」との大闘争です。

釈尊、そして日蓮大聖人が、

広宣流布の大願を末法濁悪 (まっぽうじょくあく) の世に実現するために、

創立の父は決然と立ち上がられたのです。

そして牧口先生72歳、当時は戦時下です。1943年、昭和18年、終戦の2年前です。

広布の絶対平和への強き信念を貫き通した故に、

宗教・思想の統制を図る軍部権力という魔性の手で、

治安維持法違反ならびに不敬罪容疑で検挙・投獄され、

翌1944年、昭和19年11月18日、

奇しくも、創立の日に巣鴨の東京拘置所で73歳の殉教を遂げられたのです。

牧口先生は、過酷極まる獄中からご家族に送られた書簡には、

「何の煩悶 (はんもん) もない」「何の不安もない」、また「何の不足もない」等々、

書き記されています。

いずれの書簡からも、牧口先生の澄み切った安心立命 (あんしんりつめい) の

ご境涯が拝されます。

経文通り、御書の通りに、三障四魔、三類の強敵を呼び起された牧口先生は、

何も恐れることなく「獅子王の心」で戦い抜くことを示してくださったのです。

戸田先生もまた、同じく獄につながれていました。

獄中にあって、戸田先生の祈りは、

「難は自分の一身の身に集まり、高齢の牧口先生は一日も早く釈放されること」でした。

だがしかし、昭和20年1月8日に、戸田先生は牧口先生の獄死を告げられたのです。

戸田先生は、憤怒に慟哭しながら誓われました。

「日本は、この正義の大偉人を殺したのだ! 私は、必ず仇を討つ!」

牧口先生の分身として、断固として生き抜く決意を固められていたのです。

戸田先生が出獄したのは同年の7月3日です。時の軍部権力が崩壊しつつある直前です。

終戦の前月です。初代は獄死、2代戸田先生は生きて出獄したのです。

その後、牧口先生の10回忌法要の1953年、昭和28年11月17日に、

弟子戸田先生は、烈烈と宣言されました。

『私は弟子として、この先生の残された大哲学を、世界に認めさせる!』

これこそが、学会本部が東京・西神田から信濃町に移転した直後、最初の公式行事で、

戸田先生が放たれた獅子吼 (ししく) でした。また、常に

『一歩も退かず、大折伏をして牧口先生の仇を討っていくのである』と

青年に語られまた。

それは、創価の全ての門弟が、広宣流布への「不借身命」「死身弘法」の魂を、

我が生命に厳粛に燃え上がらせてゆく原点の日が、11月18日なのです。

その創価設立の日から、明年の2010年はちょうど80周年の佳節です。

もちろん仏法は殉教主義ではありません。

法のため、師匠のため、不借の心で、働きに働き、尽くしに尽くす、

生きて生き抜いて弘通してこそ、真実の「不借身命」「死身弘法」なのです。

今より63年前の1947年、昭和22年8月24日。19歳で入会した池田先生もまた、

師匠を戸田先生と定めて、共に創価の師弟の戦いに徹しました。

当時終戦直後の経済の混乱期の際には、戸田先生の事業の打開も全て、

池田先生がただひとり、『戸田先生・戸田先生』と叫び抜き、護りにまもったのです。

当時の池田先生の最大の祈りは、

戸田先生の事業の挫折により学会の役職を辞した戸田先生を

「第二代の会長になって頂く!」という事でした。

最初から師弟不二・師弟一体の戦いをされたのです。

池田先生の当時の決意が小説、「人間革命」には記されています。

『古 (いにしえ) の奇しき縁 (えにし)に使えしを、人は変われど、我は変わらじ』

戸田先生の返歌は二首。

『幾度か、戦 (いくさ) の庭に立てる身の、死すとも残すは、君が刀 (たち) ぞよ』

『色は褪せ、力は抜けし、我が王者、捨てず保つは君が冠 (かんむり) 』

池田先生こそ、戸田先生にとって、刀であり、王者の冠なのです。

「若き指導者は勝った」の中には、

19歳の池田青年が初めて戸田先生との出会いの様子から、

その後の10年余までが詳しく書かれてありますので、熟読して下さい。

そして先生入会から4年間の苦闘の末、戸田先生の事業も飛躍。

また学会の組織も一新し、

1951年、昭和26年5月3日に戸田会長就任で、実現しました。

更には学会の折伏世帯数が、戸田先生の生涯の目標であった75万世帯の達成も、

弟子池田先生の大阪の戦いを模範として、それも実現しました。

その後の1958年、昭和33年4月2日、戸田先生逝去までの約10年余は直接、

池田先生は戸田先生と共に、

また亡くなった今もなお戸田先生を我が胸中に抱きしめ、

世界広宣流布の指揮を取っています。

師弟の魂は月々・年々に光彩を輝き増しているのです。

例えば、世界の絵画の巨匠達である、ゴッホ・ピカソ・クリムトなど、

その作品は晩年の作品程、後世にその真価が評価されてきました。

大聖人も、数々の法難の渦中と、そして晩年に、重要な御書の多くを残されました。

明年の1月2日に82歳になられる池田先生の指導もまた、

後世に伝えるべく集大成なのです。今の指導が全てにわたっての結論になるのです。

明年は池田先生が1960年、昭和35年5月3日、

第三代会長に就任してから、満50年の佳節でもあります。

第二代戸田先生の悲願を第三代の池田先生は実現しました。

第三代が勝ってこそ、初代・二代を正しく宣揚できたのです。

今、世界192カ国・地域(香港/台湾)まで創価の友は誕生しました。

先生が好きな「大楠公の歌」はこの間送った内容にも記しましたが、

父と子の今生の別れの歌でもあり、

父が子に託する、「仇を討て!」との師弟共戦の叫びなのです。

今年の10月の本部幹部会で、インドの男子部長が世界の青年部を代表して、

その心を歌ったのです。だから先生は心で泣いたのです。

学会創立80周年、会長就任50周年へ

先生の会長就任の半世紀50年という戦いは、「私の98%は戸田先生より学びました」と

アメリカハーバード大学での講演で話されました。

池田先生にはいつも戸田先生が生きているのです。

師弟は常に一緒なのです。

この50年の歴史は、創価の初代・二代の法難と一緒です。

全ては書きませんが、三代の戦いもまた、三障四魔、三類の強敵を呼び起されたのです。

代表的な事例をあげると創価学会が宗教法人として、

布教活動を自粛せざる得ない事態に追い込まれた「言論問題」。

第一次・第二次にわたる「宗門問題」。

その間には、特に君に知って欲しいのは、昭和54年(1979年)4月24日の第三代会長勇退です。

当時私は24歳、男子部大ブロック長 (現地区リーダー) 、

その模様を直接テレビで見ていました。

池田会長と北条理事長 (直後に4代目の会長) の2名で、

質素な机の前でのマスコミ会見です。

当時は何が起こったか、その意味は解らなかった。

しかし後にその真実が明かされるのです。

1979年4月24日は、師匠を裏切った日です。

当時の先生の言葉です。

「学会は私を裏切ったな
しかし、私は学会を裏切らないから安心しなさい
私は何も変わらない
恐れるな!
私は戸田先生の直弟子である
正義は必ず勝つ!」

「あまりにも 悔しきこの日を 忘れまじ
夕闇せまりて 一人歩むを」

・・・ここまで後日、聖教新聞にて掲載。

「先生は名誉会長として勇退したのだから、聖教新聞には先生の行動は一切載せるな。

先生出席の会合では拍手をしてはいけないとか・・・これ等が組織には流れてきました。」

これは拡大する学会員の増加に比例して、先生を師匠と仰ぐ会員との絆に、

本来法主が上、会員が下という人間蔑視の思想が宗門には根強いものがあった。

ところが細井日達管長は本部幹部会、2か月半後の七月二十二日急死。

次の法主に就任する阿部日顕の嫉妬は、先生に対して、特すざましいものでした。

大聖人の教えに背き続ける宗門を、僧俗和合を願う先生は何度も指導して来ました。

真実の法華経の行者は先生ただ、お一人だったのです。

そして、その日は、学会の組織と財力を嫉妬に狂った時の宗門と

その宗門の虜になった当時の学会首脳に乗っ取られたのです。

しかしその先生と会員との離反工作も、2年とも続かなかったのです。

詳しくは書きませんが、学会の第4代北条会長もまた、2年後の七月十八日、逝去です。

反転攻勢の戦いはその年 (昭和五十八年) 秋より、一番苦しんだ四国をかわぎりに、

全国へと広がっていくのです。

本来であれば栄光の日である5月3日。早朝に先生は、牧口竹林でこう記されました。

「 内外の策動により 我 清水の心にて 勇退に臨む 大作 」と‥‥。

 

この日、PM2:00 創価大学中央体育館において“七つの鐘”の総仕上げを記念する、

第40回の本部総会が行われました。

壇上右手の席は、僧侶で一杯。

左手に学会幹部。先生は、途中からそっと入場されました。

会合前、司会の方から「今日は、先生は途中で退席されます。

その時に立ち上がって、『ワーッ!』とか『先生!』とか『拍手』など、

一切しないように。

先生は静かに出ていかれますので」との説明がありました。

そのため紹介の言葉も無く、拍手も遠慮がち、

「先生」と言えないなんとも押し殺した雰囲気の場内。

挨拶に立たれた先生は「戸田先生逝いて二十一年。ここに創価学会創立四十九年。

学会第一期の目標である『七つの鐘』を打ち鳴らしたことによって、

ひとまず私は、牧口常三郎先生、戸田城聖先生の遺言は、皆様方の絶大なるお力を得て、

私の代としては、ことごとく遂行したことを確信いたします」 と述べられた後に、

会合の途中で席を立たれ、そっとお辞儀をされて退場されたのです。

先生が退場される際も「先生!」と呼びかける声も、拍手もないのです。

まるで、お葬式のようでした。先生のその振る舞いに、

涙を浮かべていた婦人部もいました。

その上、いつも先生が使われるお部屋は、日達法主の控え室になっており、

学会本部にも先生のお部屋は無かったのです。

このときの日達法主の挨拶原稿は、すべて山崎が書いたものでした。

昭和54年(1979年)の5月3日、私は、ただ一文字、「誓」としたためた。

それは、私が第3代会長を辞任した直後の本部総会の日であった。

師弟の「誓」に生き抜く限り、恐れるものなど何もない。

5.3記念代表者会議 2006.4.28聖教新聞

 

随筆『新・人間革命』

一九七九年、すなわち昭和五十四年の五月三日。

間もなく、創価大学の体育館で、“七つの鐘”の総仕上げを記念する、

第四十回の本部総会が行われることになっていた。

本来ならば、その日は、私にとって、

偉大なる広宣流布のメッセージを携えて、創価の栄光を祝賀する日であった。

すべての同志が熱意に燃えて、楽しき次の目標を持ち、

至高の光を胸に抱きながら迎えゆく、歓喜の日であった。

尊い広布の英雄たちが微笑をたたえ、共々に、

珠玉の杯を交わしながら祝うべき日であり、大勝利の鐘を自由に打ち鳴らす日であった。

しかし、嫉妬に狂った宗門をはじめ、邪悪な退転者らの闇の阿修羅が、

この祝賀の集いを奪い去っていったのである。

午後二時から始まる総会の開会前であった。

妬みと滅びゆく瞋恚の魂をもった坊主を乗せたバスが、大学に到着すると、

私は、ドアの前に立ち、礼儀を尽くして、彼らに挨拶した。

ところが、坊主たちは、挨拶一つ、会釈一つ返すわけでもなく、

冷酷な無表情で、傲然と通り過ぎていった。

学会伝統の総会は、いつもの学会らしい弾けるような喜びも、勢いもなく、

宗門の“衣の権威”の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。

墓石の上に座らされたような会合であった」と、ある幹部が後で言っていた。

激怒した声が多々あった。会場からの私への拍手も、どこか遠慮がちであった。

また、登壇した最高幹部は、ほんの数日前の会合まで、

私を普通に「池田先生」と言っていたのが、宗門を恐れてか、

ただの一言も口にできない。私をどうこうではない。

それは、強き三世の絆で結ばれた、会員同志の心への裏切りであった。

婦人部の方が怒っていた。

「どうして、堂々と、『今日の広宣流布の大発展は、池田先生のおかげです』 と

言えないのでしょうか」 と。

私が退場する時も、戸惑いがちの拍手。

「宗門がうるさいから、今日は、あまり拍手をするな。

特に、先生のときは、拍手は絶対にするな」 と、ある青年部の幹部が言っていたと、

私は耳にした。

恐ろしき宗門の魔性に毒されてしまったのである。

言うなれば、修羅に怯えた臆病者になってしまったのである。

しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。

声に出して叫びたい思いさえ、抑えに抑えた心が、痛ましいほど感じられた。

体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、

健気な婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない。

会合が終わり、特別の控え室にいた高僧や坊主どもに、丁重に挨拶をしたが、

フンとした態度であった。これが人間かという、そのぶざまな姿は、

一生、自分自身の生命に厳存する閻魔法王に、

断罪されることは、絶対に間違いないだろう。

仏法は、厳しき「因果の理法」であるからだ。

私は思った。

宗門と結託した、学会攪乱の悪辣なペテン師たちは、

これで大成功したと思い上がったにちがいない。

彼らは、「これで、計画は着々と準備通りに進んでいる。

これでよし!これで完全勝利だ」と計算し、胸を張っているだろう。

その陰湿さと傲慢さが、私には、よく見えていた。

私はずる賢き仮装の連中の実像を、その行動から見破ることができた。

この陰険極まる、狡猾な連中には、断固として、従ってはならない。

いかなる弾圧を受けようが、「忍耐即信心」である。

学会は、蓮祖の仰せ通りの信仰をしている。

死身弘法の実践である。柔和な忍辱の衣を着るべきである。

 

師子となりて 我は一人往く 1999.5.1 桜の城62P

狂気そのものの中傷の集中砲火のさなかにあった七九年五月三日、

本部総会が創価大学の体育館で行われた。

首脳幹部も、不安と戸惑いを隠せなっかった。

私への拍手も遠慮がちな姿が痛々しかった。いな、浅ましかった。

総会が終了し、渡り廊下を歩いていると、数人の婦人たちが、「先生!」

と叫んで、駆け寄ってきた。お子さん連れの方もいた。一目、私に合おうと、

ずっと待っていてくださったのであろう。目には涙が光っていた。

「ありがとう!お元気で!」

私は、大きく手を振り、声をかけ、全力で励ましを送った。そして、思った。

“これからこういう人たちを、本当の善良の市民を、誰が守っていくのか!

冷酷非道な法師の皮を来た畜生たちが、

民衆の上に君臨すれば、どうなってしまうのか!”

 

【「53」と創価の精神 「広布誓願」の師子よ 一人立て 1998.4.29

会場を出られた先生が、渡り廊下を歩いていると、

会場に入れなかった数人の婦人部のメンバーが先生を見つけ、

静止しようとする役員の制止をふりきって「先生」と叫んで駆け寄った。

先生は、「おいで、おいで」と呼ばれ、全力で激励されました。

その後「誰があの人を守るのか、誰があの人を幸せにするのか。

誰がこの人に「先生」と呼ばせてはいけないんだ。「先生」と呼ぶのは自然だろう。」

「この人たちを、私は一生守っていく。君たちは、好きにしなさい」と言われました。

先生は、この日のご心境を、お歌に託されました。

『嵐吹く 難を乗り越え 堂々と 七つの鐘打つ 今日のうれしさ

昭和54年5月3日 創価大学にて』

『法難に 遂に鳴らせり 鐘七つ 広布の城を 厳と築きぬ

昭和54年5月3日 嵐の中で 大作』

<断簡十七 錫杖の音>

五月三日、創価学会第四十回本部総会がおこなわれた。

これには細井日達管長が出席した。

細井日達管長は出たくないと言っていたが、D寺住職のSが説得したものだ。

細井日達管長は山崎に、

「総会で、どうしゃべったらいいかわからないから、山崎さんに聞いてくれ」

と述べたという。事後山崎は、

「僕の書いた原稿を猊下はそのまま読んだ」と、細井に話したという。

山崎は五月四日付で日蓮正宗法華講大講頭になった。

大講頭になった山崎は、

「天下の創価学会会長と僕は同格だよ。池田さんの上だよ。戸田会長と並んだよ」

と語った。

山崎は、師である池田会長がじゃまになり、宗門をつかって勇退に追い込んだのです。

名誉会長は、当時の模様を、こう綴っています。

「この日、私は、19年間にわたって務めた、創価学会第三代会長を退き、

名誉会長となった。

全国の、いや、全世界の同志は、その発表に、愕然として声をのんだ。

その背後には、悪辣なる宗門の権力があり、

その宗門と結託した反逆の退転者たちの、ありとあらゆる学会攻撃があった。

なかんずく、私を破壊させようとした、言語に絶する謀略と弾圧であった」

しかし、名誉会長は、その嵐の渦中にあって、

学会員を守り、広布の推進に力を尽くします。

会長を退いた後、会合等への出席も自由にできない状況の中、

一軒また一軒と、功労者宅を訪問するなど、

一人ひとりの会員を抱きかかえるように激励し続けます。

そして、81年(昭和56年)秋から翌年初頭にかけて、

四国、関西、中部、九州、東北を相次いで訪問し、

悪侶らの迫害に耐えた同志を励まし、学会の正義を宣言したのです。

その中で、長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」などの不滅の指針を発表。

さらに各種会合で、スピーチを行い、全国の会員に希望の灯をともしていきました。

ところが、阿部日顕を管長とする宗門は、

広宣流布を忘れ、腐敗堕落していっただけでなく、学会を支配し、

会員を隷属化させ、意のままに操ろうと画策します。そして、

90年(平成2年)12月、一方的に名誉会長の法華講総講頭の資格喪失を決定。

翌年、11月には学会に「解散勧告書」「破門通告書」を送りつけてきたのです。

勇退直後の5月5日、池田名誉会長は、

神奈川文化会館で「正義」と墨書した。

脇には「我一人正義の旗もつ也 大作」と記された。

 

正義

勇退直後、先生は神奈川文化会館に入られ、

5月5日には筆と大きな和紙を用意され、『正義』と認めました。

その脇書きには、「我一人、正義の旗を持つ也」と。

ひとり先生は、一歩も退くことなく、戦いを開始されたのです。

そして、全国の会員と先生との師弟の絆は、微動だにしなかった。

悔しい思いをすればするほど、創価の師弟の絆は強固になっていったのです。

全国の会員は、叫びました。

「先生が勇退されても、私の師匠は永遠に、池田先生、ただお一人です!」と。

 

そして、勇退より12年半後の、平成3年11月28日に宗門より創価学会に対しての

「破門通告書」により遂に、創価学会は魂の独立を勝ち得たのです。

これで、宗門とは完全に決別し、形式的な教義の上からも独立した宗教法人として、

自由に先生の指揮のもと大きく前進して行くのです。

大聖人の仏法を正しく、法の通り、御書の通り貫いて来たが故に、

学会は世界にまで発展したのです。逆に宗門は、最盛期に比べてわずか2%の信徒です。

仏法の正邪は厳正と証明されました。

もともと戸田先生も、言われていました。

「宗門には気をつけろ!必ず牙を剥いてくるからな。

だから学会は最初から独立して認可を受けた宗教法人にしんだよ等々の

遺言はこれで、完結したのです」

この昭和54年の5月3日。この日は、

「7つの鐘」と言って、学会は7年を一つの節目として目標を定めて戦ってきました。

その日は、ちょうど7回目の7つの鐘の終了の時だったのです。

49年目です。先生が言われて、新たな“七つの鐘”を打ち鳴らす日が、

全く180度、逆の日になってしまった。ただ一人先生が難を受けたのです。

この頃より、すでに宗門より指導してはいけないと言われていた池田先生は、

「どうしたら、会員の皆さんに喜んでもらえるだろうか?」 と、

考えに考えられて、ピアノを習い、時間を見つけては、

家で奥様と夜遅くまで練習し、一生懸命にピアノに向かって、

どこへ行ってもよくピアノを弾かれたそうです。

「私の指は、太くて短いので、ピアノを弾くには向いていないんだ。

しかし、会員の皆さんに、少しでも喜んで頂ければ、と思って練習しているんだ。

私は、プロの様に上手(うま) くは弾けない。

しかし、私には会員の皆さんを思う真心があるんだ」 と…。

「このピアノの音色は忘れるな。精一杯の私の激励だよ」 と…。

池田先生は、指導もスピーチも何もかも制約され、

それを傍観する学会最高幹部等のいる中で、

会員の方一人一人の心の中に、師弟の絆を結ぶための激励として弾かれていたのです。

 

大聖人の時代の「竜の口の法難」は大聖人おひとりの難です。そして、

大聖人の佐渡流罪から、鎌倉の門下は「千が九百九十九人は堕ちて候」と

言われるくらい、大聖人一門は退転しました。

しかし師匠が最も苦難の時に、日妙聖人との最大の称賛を贈られた婦人の門下がいた。

夫と離別し幼子を抱えて、大聖人の佐渡へ駆けつけた、今でいう婦人部の一会員がいた。

750年後の今日の創価学会の興隆は、実質時に、

婦人部員の模範、日妙聖人が産み広げた眷属かな・・・

また、壮年部の代表、四条金吾も、竜の口の刑場へ命懸けのお供した。

本物の弟子は、常に師匠を求め、師匠と戦ったのです。

宗門より創価学会に対しての「破門通知」は「熱原の法難」にも似て、

学会総体への難なのです。

弟子が受ける難は日興上人をリーダーとて、当時22歳の男子部の鏡、

南条時光も戦った「熱原の法難」です。

大聖人は、この農民信徒、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人の兄弟が処刑されるという、

出来事を通して、弟子がついに「大難に耐えうる事を感じとられて、大御本尊を建立」

されます。これにより、大聖人のこの世に出現した理由が明かされるのです。

そして、時代はそれより7世紀半後に、法華経の経文の通り、

第六天の魔王は、宗門の中に生まれてきたのです。

法華経の行者には、難があるよ。

しかし、それは世界広宣流布において、経文通りの必然であり、

仏の国土を作って行く上での避けられない仏と魔との間断なき戦いなのです。

学会会員信徒を寺院につかせ、供養集めの手段を目論んでいたのです。

末寺が、「遊戯雑談」と「僧による特権意識」ですから、

その頂点に君臨する「法主」は、何をか言わんかです。

しかし、先生は、仏法者として、誠実の真を尽くされます。

裏切られても、苦しまれても、僧俗の和合を願っていたが故に、

決して学会からは、宗門を切らなかった。

二度にわたる宗門問題に対して、その本質が先生と会員との絆の離反工作、

その結果して宗教法人としての学会を解散させることを、

先生は最初から見抜いていました。

その結論も厳しき、仏法の因果の理法の上から解っていたのです。

但し、会員が信心を理解する時を、ずっと耐え忍んで待っていたのです。

御自身一人に対する法難にも関わらず、会員には魔軍には負けるな。

信心の本質を何度も何度も激励されながら、教えてくれます。

宗門問題の発生する以前、

私が高校生の頃、日本武道館で、全国本部幹部会がありました。その時、先生は

開目抄の一説を、「全創価学会員が暗記して、難を乗り越えよう」と、激励されました。

「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、

天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、

我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん

つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」

と、教学の大切さを教えながら、時を待ったのです。

数々の難を乗り越えた創価の同志は、20年以上の時を経過して、先生の心が解る人は

全く微動だにしなかった。だからこそ平成3年11月28日は、

道門増上慢に勝利した創価学会の魂の独立記念日になったのです。

翌月の本部幹部会は大歓喜の勝利の幹部会になりました。

逆に、この12年以上にわたる法師の皮を着た畜生たちに騙されたが故か、

先生の真実が知らない故か、教学力の無さの故に、学会でも多くの退転者が出ました。

支部や地区全体として退会した組織もありました。

また卑劣にも、議員・支部幹部に止まらず、サラリーマン副会長まで退転しました。

私も苦しかった。幹部に騙されもした。

学会の信心は役職を中心とする組織ではありません。

創価学会の組織としては会長や、副会長など、多数の人材がいますが、

それは、全て広宣流布を進めていく上での立場であり、

各自が戦いやすいようにとの激励としての「肩書」なのです。

真剣に戦わない副会長より、戦う部員が偉いのです。

一兵卒で一対一の対話で戦う人こそ、誉れの広布の凱旋将軍です。

三代の会長の法難が、また、大聖人のご一生がそうであったように、

師弟の中にしか仏法はありません。

先生を中心とする同心円として、少しでも先生の心を学ぶのです。

先生の琴線に触れるのです。

また、学ぶということは、先生と一緒に戦う事なのです。

一生涯、退転などで無様な姿をしないように、

今の若いうちに、半世紀にわたる先生の戦いを学ぶのです。

そして、4.24の歴史が教えた、本末転倒の組織など、絶対に作ってはいけません。

平成21年12月22日