根源の生命力を呼び覚ます唱題の声
題目は「わが生命は本来、仏の大生命なり」
との大歓喜の宣言です。
日蓮仏法は、いわゆる「おすがり」や「棚から、ぼた餅」
を望むような生き方や信仰ではありません。
唱題行は、わが生命を変革しゆく「人間革命」の修行です。
どこまでも「自身の一念」という思いや決意を深め、
諸天善神 (しょてんぜんじん) という、
自分自身を取り巻く善のエネルギーをも動かし、
絶対勝利としいう自分自身の生き方を決定づける、
実現する方法は明かし示しています。その結論こそ、「誓願の題目」なのです。
具体的には、白馬が颯爽と大草原を疾駆するが如く、軽快で、すがすがしく、
朗々たる題目の音声です。
その上で、唱題にあって大事なことは、
「ありのままの心」「素直な心」で祈っていくことです。
例えば、自分の会社の全事業を大発展させたい・・・
人脈を築き、そして自分自身を磨き一流の仕事をしたい・・・
世界大会で、絶対優勝してみせる・・・
更には、平和で豊かな生活できますように・・・等々、何でも良いのです。
悩んでるときもある。苦しい時もある。悲しい時もある。
そんな時は、子供が母親の胸に飛び込むように、
御本尊にそのままの命で、気持で、ぶつかっていけばいいのです。
たとえ失敗などの悔やまれることがあっても、
二度と繰り返さぬ決意をして、常に未来に向かって新しい出発の唱題を!
勝負を決する時は、断じて勝つと勇気凛々の力強い唱題を!
宿命転換の時は、断じて負けないとの不退の唱題を!
喜びの時は、感謝の題目を!
御書に仰せの通り「苦楽共に思い合わせて」、
ただひたすら題目を唱え抜いていくことです。
わが生命を磨くには唱題行しかありません。
「題目第一」の人は人間の生命に巣くう 無明・・・
(貧・瞋・痴の三毒といって、貧困・争い・疫病等)
に曇った生命も磨き抜かれ、必ず法性 (絶対幸福境涯の事) の明鏡の生命となる。
と、「曇った、見えない鏡」が「はっきりと映し出される鏡」に例えています。
題目は生命練磨の作業です。ゆえに、 「心こそ大切」なのです。
したがって、題目の功徳は、何遍唱えたかという数量で決まるものではありません。
「心ゆくまで唱える」ことこそ大事なのです。
御書には、これだけの題目を唱えよなどと、唱えるべき量を定めた御書はありません。
祈りは、
「心の固さ」・・・信仰に対する強い祈りです。
「信心の厚薄」・・・日蓮仏法への強い確信です。
「志ざし」・・・純粋な御本尊への思いです。
「一念」・・・決意の深さです。
これらの全てが祈りとして実現するのです。
例えば、剣道の練習でも、竹刀での練習と真刀での練習では天地雲泥の差がある。
真刀で行う戦う生き方にこそ、「心の固さ」の修行にあたります。
現代に生きる私たちの21世紀は、乱世です。
大聖人の時代がそうであったように、今もまた、乱世であればあるほど、
「師弟一体」となって南無妙法蓮華経の題目の声が各人の宿命を破り、
社会の暗雲を打ち払います。
師匠の生命は仏の生命です。
その師匠と一体となった「師弟誓願の題目の祈り」とは今世も、また未来も、
この法を広めて、大歓喜の生き方を友に語りながら、我も唱え、人にも教え、
共々に歓喜と勝利の人生を切り開けとの師弟共戦の生き方です。
2011年1月度・大白蓮華 曽谷殿御返事・・・池田名誉会長講義より