希望に生きよ! 自らが希望の存在として輝け!

希望に生きる、人生の勝利者 たれ!

 

日蓮仏法の信仰は、ひ弱な「心の慰め」ではない。

自分で、挑戦すべき「山」をつくり、「山」をつくって乗り越え、

また次の「山」をつくって乗り越えていく。

乗り越えるたびに、もっと強く、もっと大きな自分へと人間革命していく。

これを、その人の持つ境涯 (きょうがい) という。

 

そのための源泉はなにか。

それは自行化他 (じぎょうけた) に亘 (わたり) ての題目に他なりません。

題目は蘇生の源です。ありとあらゆる自らの悩みや課題、

また目標を実現できる偉大な力があります。

例えば、「夢こそ力」です。「希望こそ力」です。

人間は「絶対にこれだけはやりとげるんだ」という固く決意したら、

たいていの事はできるものなんです。

本当に、心から「こうしたい!」「必ず、必ず、やりとげてみせる!」

と決意できたら、半分はできたようなものだ。

反対に、中途半端な決意では、何もできない。川がある。橋がない。船もない。

「渡りたいな。だけど無理だな」。

そう思ったら、その時点で終わりです。永久に渡れない。

「橋がない。じゃあ、橋を架けよう!」

「船がない。じゃあ、船をつくろう!」

「橋もできない。船もできない。じゃあ泳いで渡ろう!」

「泳げない。じゃあ、泳ぎを覚えよう!」この意気です。

時代まますます、混迷の度合いを深めています。

病気の悩みもあるだろう。将来の生活の不安もあるだろう。

世界の経済をはじめ、それから発生する個人の生活も、不安を増長するばかりだ。

いつになったら、時代に明るい希望の光が見えるのか。

為政者どもが作り出した長引く不況などは、自分さえよければ人の犠牲はかまわない

との結果です。その三毒 (貪り・愚か・怒り) の究極たる悪魔の発想は、

21世紀の現代も続いています。識者の警告は、微力にさえ感じます。

この困難な時にあたり、今ほど希望の哲学を訴えなければならない。

その解決の突破口を開かなくてはならない。

それは、どこまでいっても、一人ひとりの対話による友の心の扉を

開かなければならない。祈って、動いて、書いて、話して、

友の心に生涯、平和の砦を築かなければいけない。

だまっていたり、何もしないと、結局、正義とは真逆な悪魔の生き方に味方してします。

大事なことは君が、自分が、悪魔のほうにつくか、正義の生き方を選択するか、

二つに一つしかないのです。

中途半端は、 ” 悪の権威と官僚機構 ” が社会には出来上がっている故に、

本人の意思に反して、結局、悪魔の思想に利用されているだけなのです。

それに打ち勝つには、正義の哲学が必要です。

その究極な正義とは何か、

それは自他共 (じたとも) の幸福の実現とそれを可能ならしめる行動としての哲学です。

自他共とは、自分と他人と共に!という事です。

私たちは自分以外やほかの人も家族があります。同じ人間です。

「君が憂いに、我は泣き、我が喜びに君は歓喜する」この同志愛であり、

共に同苦し、共に苦楽をともにする生き方です。

沖縄には、「人の苦しみに胸が痛くなる」という感情があります。

これは、決して憐れみや同情ではありません。

仏法では『同苦』と言う。相手と同じ苦しみを自分の心で感じるという意味です。

心が感じるから、ひとりの人間を一切、差別はしないのです。

この同苦という仏法の思想と沖縄の文化は全く、同一なのです。

学会の組織でも、人や、他の組織との比較はすべきではありません。

この日蓮仏法の信仰の目的は、自分自身がそして、その一族が、まわりの人々が、

絢爛たる大功徳の境涯を開いたかどうかに帰着します。

それを人類規模に広めようとしています。

世界広宣流布の目指すべき姿は明確なのです。

その為には、自分がどう戦ったか、昨日よりも、今日の戦いに悔いはないのか、

比較するのは、自分自身なのです。これが信心の強い生き方なのです。

そして正義の哲学の究極は何か、その結論は、「広宣流布に生き切る学会活動」です。

この戦いの中で、人材は見出され、逸材は台頭してきます。

まるで原石のダイヤが信仰の感動に触れて、勇躍歓喜し、時代を拓く

リーダーとしての成長してくるのです。

この学会活動の鍛錬は、「心に師」を抱いての鍛錬です。

「先生なら、どういう手を打つ?先生なら、どういう激励をする?」と

常に思考を重ねていかなければ、真剣勝負の鍛錬にはなりません。

心に題目を唱えながらの学会活動の姿は、知らず知らずのうちに、

自分自身の境涯を高めます。御本尊は見ています。

常に模範の一兵卒である人こそ、民衆の中に入っていけます。そして戦えるのです。

その人こそ、確たる自分を創ります。

組織の役職の上下関係からの指示は、日蓮仏法の心ではありません。

どこまでも、信心強き一対一の対話の中でしか、

確かな師弟のくさびは打ちこめないのです。

そして最も大事な事は、決して弱い正義ではいけない。

過去の歴史では、正義が敗れた故に悲惨な戦争や慟哭の苦しみがあった。

正義は勝ってこそ、満天下に宣揚できるのです。

創価学会も、今は第6代原田会長です。

これから、第7代、8代と続くでありましよう。

しかし、いかなる時代になろうとも、第3代の池田SGI会長の思想を宣揚してこそ、

更なる「末法万年尽未来際」(まっぽうまんねんじんみらいさい) にわたる、

広宣流布の流れは確実になるのです。この一点は大事です。

もしも将来、第3代会長の思想に、異を唱える学会幹部が出てきたら、

青年時代に薫陶をうけた生命から迸り出る情熱で、強く呵責して下さい。

大聖人は、最も迫害を受けた佐渡流罪期に、後世に伝えるべき重要な御書を残しました。

その弟子たちの受けた熱原の法難を契機として、末法流布の為の「大御本尊」を認めた。

そして、現代にあっても、第3代の会長がありとあらゆる難を受けた。

先生が会員のかわりに一切の難を引き受けた。

この厳然たる事実が創価の誉れであり、仏法証明の歴史なのです。

故に、法華経の経文通りの大功徳が創価学会にはあるのです。

初代、2代、3代にわたる会長の、妙法流布の戦いを起こした革命のロマンを、

その恩を、断じて忘れてはならない。

創価の父、牧口先生は、ある一面で大善生活と言われた。

2代戸田先生は、人間革命を叫ばれた。

そして、3代の池田SGI会長は、それを生命の尊厳へと高められた。

ここで、創価の哲学は完成したのです。世界は生命尊厳の思想を希求しています。

だからこそ、世界宗教として創立100周年には絢爛たる創価の哲学が、

池田先生の思想で、広宣流布していく時代に入ったのです。

時代は拓かれた。

あとはそれを託す青年の成長と結果を大樹と仰ぎ見る思いで待っています。

まさしく池田思想を広めゆく、師弟誓願の題目と自行化他 (じぎょうけた)

に亘 (わたり) ての題目です。

「南無妙法蓮華経」と唱える題目は、

自分という小宇宙を妙法という大宇宙のリズムに合致させているのです。

その題目の音率は、力強い生命力の雄叫びです。

獅子吼の音声こそ、唱題の音率です。

白馬が颯爽と草原を駆け抜けるが如く、力強い音率で、心ゆくまで唱えゆくのです。

そして、それは死の瞬間まで命の限りあるまで、生涯唱えぬくのです。

生命は、過去、現在、未来と、三世まで永遠に続きます。

今の自分が未来の自分を創ります。「いよいよ!」「さあ、これから!」の意気です。

信心の力、題目の力は無限です。

人間が、だれでももっている「希望の力」を

無限大に拡大し、増幅する力が、題目にはあるのです。

師匠の祈りは、広宣流布の大将軍の祈りです。

師匠は、将の将たる仏の生命での指揮を取っています。

その祈りに同じ決意で唱える題目は、師匠の仏の生命の琴線にふれます。

そして師匠の祈りは、わが弟子よ、私以上に成長せよ!と。

もったいなくも有難い存在です。

ゆえに、師匠と同じ決意で立ち上がった時、

仏と同じ智慧と勇気が、師匠の生命が、私たち弟子の生命と共鳴して、

仏である師匠と同じ力が発揮出来るのです。

そして、題目を唱えながらの折伏としての行動は、自他共の幸福です。

自分の友も、そして私も。全く同じ幸福の境涯を拓くのだという行動です。

個々人は、宿命や課題も当然違います。それが異体同心 (いたいどうしん) です。

共々に、一生涯、境涯革命 (きょうがいかくめい) に挑戦するのです。生命は永遠です。

革命のロマンを語り合った友や、一緒に戦った友との今生の思い出は、

未来世までも、縁深く続いていくのです。

これが希望の生きる人生の勝利者です。

2012-1-2