一生成仏抄に学ぶ

未来を拓く君たちへpart7

今回は、大白蓮華2月号、「一生成仏抄」(いっしょうじょうぶつしょう) について

学びたいと思います。最初に66ページから73ページまで、一読して下さい。

そして背景と大意は61ページの下の部分です。

 

 

これを読んだ上で、講義に入ります。

御書は読む人も、そして講義する人も、共に戦う決意を固め合う事なのです。

そして学ぶのは先生の大境涯に触れるのです。生命の触発なくして信心はありません。

また御書は、一対一の激励の書です。

大聖人一人から弟子全員へではありません。

会合形式では、多くの人に呼び掛ける時もありますが、

師弟の信心は、一人から一人なのです。師から一人の弟子への継承なのです。

26日の「SGIの日」を記念した協議会には多くの会員が集っての会合になりました。

そこでも、先生は一人一人の近況を聞きながら、一人ひとりに激励されています。

先生の大境涯に学ぶのです。

では、最初に題名である、「一生成仏抄」、

人間は一生のうちに、成仏するという意味では、ありません

これが勘違いする部分ですが、その題名の意味は、

『ひとりの人間は、今現在その瞬間に、ありのままの姿で、

仏の境涯 (きょうがい) を開くことができる』 という意味です。

仏に成るのではありません。仏の境涯を自らの生命の中から開き、

そして現実社会を変える事を一生成仏と言うのです。

最初の御文の『若し心外に道を求めて~67ページ2行目の還同外見と釈せり』まで・・・

法華経は、生命そのものを説いた経典です。

それを日本の鎌倉時代に展開されたのが日蓮大聖人です。

御文の中で、

心外 (しんげ) = 自分自身の生命の以外と言う意味です。

道 (どう) = ここでは仏道修行であり、正しい生き方の意味です。

万行万善 (まんぎょうまんぜん) = これは、仏法の事全てという意味です。

ここでは仏法以外のことではありません。仏道修行の全てとも解釈できます。

大聖人は当時の諸宗派、釈尊から発した仏法の「万行万善」の生き方であっても、

本来の一個の人間の生命の中にこそ、仏の生命を見ていました。

この仏の生命を「南無妙法蓮華経」と名付けられたのです。

自分自身の中にある仏性を呼び・呼ばれて現れるのが仏の生命です。

生きとし生けるもの全てが「南無妙法蓮華経」の当体そのものです。

宇宙に貫かれたリズムそのものが南無妙法蓮華経なのです。

故に自身の唱える南無妙法蓮華経という音律が全ての生命に反響し、

自分自身の胸中に仏性が現れるのです。

「若し心外に道を求めて」~始まる冒頭の一節も、

一生成仏抄の結論から入られているのです。

仏法といっても、実は自分自身の生命の中にしか、仏法は無いのです。

との大聖人の御指南です。

人間的な例として、現代的に約すると、銀行員が預金者のお金を数えても=「隣の財」、

けっして自分のお金ではありませんよ。との比喩を用いています。

天台大師の「若し心を観ぜざれば」=

自分自身の胸中にある仏としての生命を出さなければ、という意味です。

そして、重罪というのは、人間生命には、三毒といって、

「怒り・愚か・貪り」という生命の傾向が常に出てきてしまうというのです。

今のこの時代が末法 (まっぽう) とって、三毒強情 (さんどくごうじょう) の人々が

多く生まれてくる時代です。

これらの人々の三毒。これが滅しないばかりか、

逆に自分自身の胸中にある、仏としての生命を出さない仏道修行は、

無量の苦行 =苦しい活動になるというのです。

ここでいう外道とは、日本語で広く悪い意味で使われる外道ではなく、

仏法で説く内道の意味である、「自分自身の生命は過去・現在・

そして未来にわたって、永遠に存在する生命」を否定する意味での外道で、

人の生命は、この世だけであるという考え方です。

これが内道 (仏法) との根本的な違いです。

ここまでが、「還同外見と釈せり」=

仏法を学び、修行するといえども、還って外道と一緒になってしまうよ。

ということです。

では、自分自身の胸中にある仏としての生命を出すには、

どうすればいいのか、これが次の御文です。

然る間・仏の名を唱へ=南無妙法蓮華経という題目を唱えるという意味です。

経巻をよみ=勤行です。

そして、華をちらし香をひねる=鎌倉時代の習慣としての信仰のひとつでした。

今に置き換えれば、仏道修行以外の全ての生き方、

仕事であれ、家事であれ、人間としての行動全般の事です。

この人間としての生き方は、題目を中心として、全てにわたって「功徳善根なり」=

決定(けつじょう)した人の一念の事です。として信心をして行きなさいという意味です。

『皆我が一念に納めたる功徳善根なり』この御文が大事です。一念の大転換です。

一念が変われば、現実を変える挑戦が始まるからです。

勤行と題目の祈りの中に、全てを功徳善根に変えてみせるぞとの唱題行です。

「之に依って浄名経の中には~68ページの悟る時をば仏と名けたり」まで。

ここは浄名経を引かれて「生命の変革」と「国土の変革」の

2つの側面を解釈されています。心行 = 人の心と、その人の行動の事です。

衆生即菩提 (しゅじょうそくぼだい) も生死即涅槃 (しょうじそくねはん) も同じ意味です。

語句の意味は大白蓮華の上に書いてありますから、知識としてそのまま理解して下さい。

この「衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり」・・・ここが生命変革の原理です。

菩提や涅槃といっても、人間を超えて、他にあるのでは無いのです。

神や絶対的他者を求めるのではありません。

迷いの凡夫や苦しみを味わっている自分自身、そのものが、

『皆我が一念に納めたる功徳善根なり』との一念に立つことにより、

菩提や涅槃という仏としての境涯を開いていけるのです。

その決定 (けつじょう) した自分自身を創るのです。

唱題行で、自らの生命を鍛え上げるのです。

仏としての境涯を開くのは自分自身の生命の変革作業なのです。人間は何もしないと、

常に無明の生命である三毒の「怒り・愚か・貪り」という生命に覆われて行く。

この無明に支配された自分自身の生命を仏として開くのです。開くのは自分自身です。

これが、69ページ 1三代会長の心、創価の挑戦です。

「”我、妙法蓮華経なり”と決めよ」

「自身の生命を妙法に染めあげるのです。自身の生命を妙法で固めるのです。」

・・・ここは暗記するくらい読んで、覚えて下さい。

自分が仏としての境涯を開いてこそ、人にも伝える事ができます。

そして、社会全体も無明に覆われた命を仏として開いて往く事ができるのです。

これが次の御文です。

「浄土 (じょうど) と云い穢土 (えど) と云うも~」は、国土の変革の原理です。

人間革命の主題 (テーマ) である、「一人の人間における偉大な人間革命は、

やがて一国の宿命の転換を成し遂げ、ついには人類の宿命の転換をも可能にする」

これの部分でもあるのです。

余談になりますが、沖縄の那覇、真嘉比(まかび)支部の舟越さん、ご一家は見事なまでの

「三変土田」の実証を示された誇りの家族がいます。

沖縄戦の当時、日本軍沖縄防衛隊司令部のある首里まで、数キロの位置にあった、

那覇市最大の激戦区、真嘉比地区は今、最後の区画整理事業が進んでいます。

未だに、人骨と不発弾は毎週のように掘り起こされます。

その場所に広布の牙城、舟越栄光会館を建てて下さった。

本部の拠点として、地区・支部の皆さんまで、感謝で集い会っています。

80歳近くになるご夫妻は、多少の病気があっても、今なお、第一線で戦っています。

また、娘さんも、若いころの脳腫瘍の病魔を克服し、

更賜(きょうし)寿命の実証を示された。

20年近くを経過した今でも、戦う姿は広宣流布の感動の姿です。

また、長男の義友君は、一家の稼ぎかしらだ。

仕事が忙しすぎて、良いのか、良くないのか、経済的に大きな福運に包まれている。

会長就任50年は、世界広宣流布の50年です。

創価の父、牧口先生は妙法流布を実現すべき精神的価値を、

一次元から「大善 (だいぜん) 」と言われました。

戸田先生は、全人類の「人間革命」を高らかに謳われた。そして、

三代の池田先生は、全人類が目指すべき価値を「生命の尊厳」として展開したのです。

「只我らが心の善悪によると見えたり。」

心の善悪=生命尊厳への改革に挑戦しなさいとの意味です。

苦悩の中にこそ仏の生命は実在するのです。

ひとりの人間として具体的な実践に即して言うと、

1責任転換から、一人立つ精神へ。

2現実逃避から挑戦する自分へ。

3不平・不満の愚痴の心から、人を激励できる自分へ。また、

4嫉妬や憎しみから、異体同心の団結へ。

5憶病から勇気へ。これらが自分自身の人間革命への挑戦なのです。

「悟る時をば仏と名けたり」とは、仏の智恵を根本とするか、どうかです。

実際 「悟る時」 と言われても、理解できません。結果として、後から解るものなのです。

70ページ 2功徳は我にあり

「そう自分が自分で決めて、使命を果たしていくのが仏法である」

絶対に護られないわけはない。これが信心の実証です。結論です。

71ページ3 誠実に、真剣に 72ページになりますが

「題目を唱え抜いて、悔いなく戦いきることだ。

必ず、永遠の成仏という大果報を勝ち取っていくことができる。

創立80周年は皆が大功徳を開く時なのである」と。

この1、2、3とも全てが自分自身の一念の転換で、必ず「仏の大境涯を開いてみせる

という決意に立ちなさいとの指導なのです。

地上戦を経験した沖縄には「イヌチドウタカラ」=”命こそ宝”という思想が強く残っています。

奇しくも今年は、日蓮大聖人が時の執権 (最高権力者) に折伏の書、

「立正安国論」を上呈してから750年。

50年前のその時、池田先生の決意は、

「最も苦しみをなめたところが最も幸せにならねばならない。

なる資格があるし、必ずなっていく。

これが仏法である。沖縄を戦争の要塞から平和の要塞へと転換していく。」

これが先生の心でした。

しかし、当時の沖縄の会員は、沖縄創価学会、総会という認識しかなかった。

先生が来られて、初めて支部結成を知ったのです。

世界広宣流布の第一歩は、沖縄支部結成から始まったのです。

そして、今、創価の人間主義の連帯は世界192カ国、地域までも興隆しました。

今この瞬間、朝を迎える国もあります。

24時間世界中で我が同士の題目が響き渡っているのです。

2月3日の聖教新聞に、「忘れ得ぬあの瞬間」と題して、沖縄が紹介されます。

大百蓮華1月・2月・3月号と併せて、今なぜ沖縄なのかを学んで下さい。

先生の心を知ることが信心です。先生と呼吸を合せるのです。

師弟共戦の信心に徹してこそ、自分自身にすごい力が発揮されるのです。

最後の御文になりますが、

「誓えば闇鏡も~只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」

鎌倉時代の鏡は銅鏡(どうきょう)といって、相当な高価なものでした。

現代の鏡ではありません。

今で言えば、車のフロントガラスが温度差によって、曇るように、

当時の銅鏡は磨かないと映らないものでした。これを人の心に譬えたのです。

72ページ4 研ぎ澄まされた明鏡のごとく

「日々、妙法を朗々と唱え、学会活動に勇んで取り組むなかでこそ、

自分自身の生命が最高に練磨される」と。

人間は三毒が強くて、なにもしないと、すぐに迷いの生命(無明)となるのです。

自然に不幸へ、不幸へと流されてしまいます。

だから大聖人は「日夜朝晩にまた怠らず磨くべし」と言われました。

そして最後にもう一度、結論を訴えているのです。

「只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」です。

唱題行の重要性と、持続性の大事さを言われています。

具体的には、挑戦の題目と持続の題目です。

この2つを先生は「勇命精進の題目だよ」と言われました。

73ページ 5 世界一、富める者 

「今、題目を唱えられるという現実そのものが、最高に幸福な境涯なのである。

真剣に祈り、信心に徹すれば、」

・・・この功徳がどれほどすごいか、実証として示し切って行けとの指導です。

自身の生命を磨きに磨いてゆこうとの、大聖人の激励でもあるのです。

以上、本文に即して書きましたが、

1から5までの先生の指導が大事です。ここでは内容を省略していますが、

1から5までは、何度も何度も読んで心で知って下さい。

繰り返しますが、先生の心を知る事が信心です。仏法の心です。

そして師弟の戦いに徹すれば、自分自身に凄い力が出るのです。

まさしく過去を振り返れば、勝ち戦、

未来を見れば宝の中に入っていくような人生。これが仏の大境涯です。

最高の幸せの生き方なのです。

2010年1月28日

SGI(創価学会インターナショナル)発足35周年へ

S G I 発足35周年へ

未来を拓く君たちへpart6

本年2010年1月は、SGI発足35周年の佳節でもあります。

それは1975年(昭和50年)1月26日。

世界51か国・地域158人のメンバーが太平洋戦争の激戦地・グァム島に

集まって創価学会の世界平和会議が開かれました。

その席上、各国の創価学会の連合体である

SGI(創価学会インタナショナル)が結成されたのです。

そして、 池田名誉会長(当時:会長)がSGI会長に就任し、

ここに「平和」「文化」「教育」の旗を掲げたSGIの記念すべき

第一歩が印されました。

それは第一宗門問題が発生する2年前(1973年、昭和52年)の事です。

世界広宣流布を指揮する法華経の行者は三類の強敵を呼び起こすという、

経文の通り、御書の通りの予言が的中します。

池田名誉会長は、第三代会長に就任した1960(昭和35)7月16日の大聖人が折伏の書、

「立正安国論」上呈のその日、日本でありながら、

いまだ米国の統治下に置かれた沖縄をパスポートを取得し、訪問。

初の沖縄支部結成を行いました。実は、これが実質的な世界広宣流布の始まりなのです。

そして10月、25日間の北・南米指導の旅に出ました。

翌61年1月には、インド、東南アジアへ。

そして秋にはヨーロッパ指導に赴き、62年1月には中近東にも行きました。

SGI発足の前年1974年、世界は東西冷戦の最中です。

中国とソビエト連邦との対立の中を、

中国を2回、同年にはソ連にも足を運び、

両国に「対話の橋」を掛けました。

そして翌1975年、SGI発足のその月、二ュヨークの国連本部で、

当時のワルトハイム事務総長と会談。

青年部の手による核廃絶の1千万人の署名を手渡しました。

そして、同月、首都ワシントンDCで、キッシンジャー国務長官と会見。

こうして、国連、及び米中ソの3カ国の首脳に世界平和と

軍縮を強く訴えていったのです。

この激闘の最中よって生まれたのがSGIでした。

世界平和会議の席上、池田SGI会長は、

「全世界に妙法という平和の種をまいて、その尊い一生を終わってください。

私もそうします」 と呼びかけました。

この池田SGI会長のスピーチに、万雷の拍手が鳴り響きました。

“全世界に妙法の種をまく”このSGI会長の誓いこそ、

仏法の人間主義を広げゆくSGIの原点となったのです。

不思議にも、今日2010年1月1日の聖教新聞の冒頭に、

「グァムの各界から、SGI会長夫妻に顕彰」が贈られることの記事が紹介されています。

平成22年1月1日

50年にわたる先生の戦い

50年にわたる先生の戦いに学べ。

未来を拓く君たちへ part 5

それは50年前の1960年(昭和35年) 5月3日、第三代会長誕生より本格的に世界広宣流布の指揮を執られた先生が、19年間の会長の職を辞した昭和54年の勇退の日。

その前後の真実を書きます。Part3で書いた、

随筆 新・人間革命79 法悟空 【嵐の「4・24」/断じて忘るな!学会精神を】

の当時の状況を説明します。

1977年(昭和52年)「仏教史観を語る」と題した池田会長の関西での講演を、日蓮正宗・宗門が一方的に問題視。

当時若手僧侶の集まりであった、正信会の悪侶どもが学会批判を昂然と開始。

更には週刊誌をも巻き込んで、昭和53年になると、連日、マスコミの売らんが為の記事のターゲットになり、電車の中吊り広告は全て、池田会長一人に対する誹謗中傷の嵐だったのです。

創価学会総体に対する批判というよりも、池田大作個人に向けた攻撃でした。

一人の人間として、日本一同に、こうも個人攻撃を出来るものか! との異常性は、会員に限らず、相当の違和感を覚えていました。

経文通りだとはいえ、民主国家の中で、その異常性は会員・非会員に限らず、少なからず社会の異常性を感じていました。

その裏には、当時創価学会の顧問弁護士であった山崎正友や当時教学部長の原島崇らが、学会と宗門との離間工作を画策し、

自らが宗門を牛耳りその権威を利用し学会を操ろうとしていたのです。

もともと宗門には、僧が上で信徒が下という僧侶の世界特有の歪んだ特権意識があり、そこに山崎等に付け入られるスキがあったのです。

山崎は、当時の日蓮正宗の法主日達に取り入るために、法主に近い若手僧侶を酒、金、遊びで取り込んでいき、このルートを使い「学会はまもなく独立する」「もう本山には登山しなくなる」等といったデマを流したのです。

それにより、宗門の反学会の若手僧侶(正信会)らの動きが、活発化していきました。

山崎は、心臓に持病を抱えていた日達に、有名な医者を紹介し最終的には、自分の事を「山崎先生」と呼ばせるまでに信用させたのです。

最初は問題が起こるたび、池田会長が日達と直接対話し、問題を解決していました。

山崎は「ある信者からの手紙」なる怪文書を作成。

「学会にとって宗門は邪魔であり、宗門を学会の外郭団体にする狙いがある」「このまま宗門は、学会に吸収されるか二つに一つだ」等の、デマを並べ、自分の息のかかった側近を使って日達に届けさせたのです。

それが、宗門の若手僧侶の集会(正信会)で読まれました。

この、怪文書の成功に味をしめた山崎は、その後も怪文書、謀略文書を乱発し、宗門を手玉にとっていったのです。

当時学会の顧問弁護士であった山崎は自分で、紛争の火種をまいておいて、思惑通り火が回ると見るや、今度はその火消し役を買って出るということをしていたのです。

これは マッチポンプと言って 「自分でマッチで火をつけておきながら、それを自分でポンプで消す」 というように、自分でわざわざ問題を作り出しておきながら、そ知らぬ顔で、自分がそれを解決することで、賞賛や利益を得るという偽善的な自作自演の手法です。

その山崎に踊らされ、「今こそ池田大作を亡き者にしよう」「そして、骨抜きとなった学会を宗門の手で支配しよう」と全宗門がこぞって、その牙を剥き出しにしたのです。

その様は小さな傷口に薄汚れた爪を突っ込んで、力まかせに引き裂くようなやり方でした。

坊主達のどす黒い本性が露呈したのです。

それでも池田会長は耐えられました。

こういった渦中の中の54年3月、福島(当時創価学会・副会長。後に退転)が九州の会合で宗門批判をしてしまったのです。

「猊下(法主のこと)に対し、誰もお慕いして近寄ろうとしない」

「猊下が通っても、どこのオジサンだ、という程度の感覚しかない」

「葬式に赤いスポーツカーで来る坊主がいる」

「カツラをかぶってスナックに出入りしている坊主がいる」

等々。大牟田発言である。

この発言がくすぶっていた宗門内の反学会僧侶等の動きに再度に火をつけたのです。

坊主は池田会長に対し、狂ったように責任を取れと騒ぎ立て、

宗門の態度は一気に硬化していったのです。

「池田が会長を辞めれば水に流してやる」と――。

これが、1979年、昭和54年4月24日の第三代会長勇退の記者会見です。

ところが会長勇退直後宗門は、「名誉会長という役職も要らない」と、強引にねじ込んできました。

その後、名誉会長就任拒否は引っ込めたものの、宗門問題は終息するどころか、むしろ「この時とばかり」と、会長勇退後も、その攻撃が始まりました。

全国の寺院で激しい学会批判がなされていったのです。

坊主が厳粛であるべき学会員の結婚式や、葬儀の場で、声を荒げ、池田名誉会長を誹謗中傷、罵(ののし)り狂ったように学会批判を繰り返す。

晴れがましい人生の門出を祝福すべき立場にありながら、また、遺族が悲しみのドン底に沈んでいる、永久(とわ)の別れの場を土足で踏みにじるような、坊主の非道ぶりに、心の底に一生消えない、深い傷をつけられた会員の方が、全国におられたのです。

マスコミが学会を中傷する記事を連日掲載。悪侶や脱会者等がそれら週刊誌を片手に学会を批判。

組織を切り崩そうとし、マスコミがまたそれをネタにする。

純真な学会員と池田名誉会長の師弟の絆を断ち切ろうとする行為が数年にわたってつづいたのです。

当時は折伏をして、お寺に御受戒(入信の儀式)に連れて行くと「お前は、日蓮正宗に入るのか、それとも創価学会に入るのか」と衣の権威を振りかざした坊主どもの陰険な会員いじめがありました。

会員が池田先生のことを語れば、いじめる。

池田先生はすばらしいと言えば、

まだそんな事を言っている会員がいると池田先生を批判する。

池田先生が会員を守ろうとすれば難癖をつける。

当時の学会メンバーは、手も足も縛られて、「池田先生に御迷惑がかかってはいけない」との思いで、みんな襟首を立てて身を縮めて、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかったほど、魔は執拗に攻めてきました。折伏も一世帯も進みませんでした。

それこそ、ただじっと耐えて、励ましあうしかない状況が続いたのです。

この頃より、すでに宗門より指導してはいけないと言われていた池田先生は、

「どうしたら、会員の皆さんに喜んでもらえるだろうか?」と、考えに考えられて、ピアノを習い、時間を見つけては、家で奥様と夜遅くまで練習し一生懸命にピアノに向かって、どこへ行ってもよくピアノを弾かれたそうです。

魂の音率

 

 

 

 

 

 

 

「私の指は、太くて短いので、ピアノを弾くには向いていないんだ。

しかし、会員の皆さんに、少しでも喜んで頂ければ、と思って練習しているんだ。

私は、プロの様に上手(うま)くは弾けない。

しかし、私には会員の皆さんを思う真心があるんだ」と…。

 

 

「このピアノの音色は忘れるな。精一杯の私の激励だよ」と…。

池田先生は、指導もスピーチも何もかも制約され、

それを傍観する学会最高幹部等のいる中で、会員の方一人一人の心の中に、師弟の絆を結ぶための激励として弾かれていたのです。

?昭和54年(1979年)4月24日に先生が第三代会長を勇退。

「七つの鐘」は暗雲の中で鳴り終えた。

先生は指導することを阻まれ、邪宗門に乗っ取られた学会本部と

聖教紙面からも姿を消したのです。

☆☆☆反転・攻勢の戦いを開始☆☆☆

この状況に風穴を開けたのが、昭和56年(1981年)から2年続いた「青年の年」だった。

全国各地で青年部による文化祭が行われた。

あの頃はほぼ毎月、どこかで文化祭があったように記憶している。

まさに絢爛(けんらん)たる大文化祭運動であったといってよい。

悪侶どもが何を言おうと、師を求める青年のを抑えることはできなかった。

殆どの文化祭に先生は出席して下さった。

今、50代60代となっている方々の大半が、この時の文化祭によって育った。

そして、昭和63年(1988年)に、学会は新たな潮流へと向かう。

それまで行われていた本部幹部会や全国男子部幹部会を、学会本部で行うようになった。

勇退以来、先生が再び本格的な指揮を執って下さることになったのである。

それまで分散していた力を再び結集し、本部直結の流れが敷かれた。

この年は「青年世紀の年第一年」と命名された。

日顕による第二次宗門問題が勃発するのは平成2年(1990年)12月27日。今思えば、絶妙なるタイミングを計って、創価ルネサンスの布石を打たれていたことに気づく。

そして電話回線による同時中継が行われるようになり、

遂に衛星中継で先生の勇姿を直接、拝見することができるようになった。

また、長らく中断されていた小説『人間革命』第11巻の連載が再び開始されるなど、激動に次ぐ激動の時期であった。(一部転載)

平成21年12月31日