四条金吾殿御返事・法華経兵法事

広宣流布大聖堂 日蓮大聖人・御書全集

四条金吾殿御返事 (別名・法華経兵法事/ほけきょうへいほうじ)弘安二年十月・五十八歳御作

(現代語訳)

さきごろ強敵と争いあったことについてお手紙をいただき、くわしく拝見しました。
 それにしても、以前から、あなたは敵人にねらわれていたでしょう。しかし、普段からの用心といい、また勇気といい、また法華経への信心が強盛な故に、無事に存命されたことは、このうえなくめでたいことである。
 いったい、福運がなくなってしまえば、兵法も役に立たなくなり、また果報が尽きてしまえば、家来も従わなくなるのである。結局、福運と果報が残っていたからである。
 ことに法華経の行者に対しては、諸天善神が守護すると、法華経属累品第二十二で誓いをたてている。一切の守護神・諸天善神の中でもわれわれの眼に、はっきりとその姿が見えて守護するのは日天と月天である。それ故どうしてこの諸天善神の守護を信じないでいられようか。
 とくに、日天の前には摩利支天がいる。主君の日天が法華経の行者を守護するのに、家来の摩利支天尊が法華経の行者を見捨てることがあるだろうか。法華経序品第一の時に「名月天子・普光天子・宝光天子・四大天王有り、其の眷属万の天子と倶なり」とあるように、諸天善神は、皆列座した。摩利支天は、そこに列座した三万天子の中に入っているはずである。もしその三万天子の中にいなければ地獄に堕ちているであろう。
 結局、この度あなたが強敵からのがれられたのは、この摩利支天の守護によるものではなかろうか。摩利支天はあなたに剣形の大事を与え、守護したのである。この日蓮は、一切の諸天善神の守るべき首題の五字をあなたに授ける。法華経受持の者を守護することは断じて疑いない。摩利支天自身も法華経を持って一切衆生をたすけるのである。剣形兵法の呪文である「兵闘に臨む者は皆陣列して前に在り」の文も結局、法華経より出たものである。法華経法師功徳品第十九に、「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」とあるのはこの意である。

(解釈)

本抄は、別名を「法華経兵法事」あるいは「剣形書」といわれ、兵法と法華経の信心との関係について指導された御書である。
 もとより、ここでいわれている“兵法”とは、剣をとっての戦いの法であるが、原理はなにもそうした武力による戦いに限るのではない。
人間として、この社会に生きていくうえにおいて、経済、思想、文化の各面にわたって、不正の横暴に対して戦わなければならない場合がある。また、新しい価値創造のための努力も広い意味では“戦い”である。
 “兵法“とは、そうしたそれぞれの分野における戦い、努力の具体的方法である。その戦い、努力をいかに効果あらわしめるかは、方法論をこえた視野を必要とする
そこに、究極的には、自己の生命の開拓(人間革命) が必要となってくるのであり、それを可能にしたのが法華経なのである。
この意味において、本抄に示されている指導は、武士としての四条金吾に限定されるものではなく、時代・環境の違いを越えて、現代においても、更にあらゆる人間にとって重要性をもっていると考えるべきであろう。

前前(さきざき) の用心(ようじん) といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に
 いつ、どのような事態に直面するとも知れないのが人生である。そうした思いがけない事故にぶつかったとき、無事に乗り越えるかどうかは、まさに、この文にあげられている三つの要因を、ふまえているかどうかにかかっているといっても過言ではあるまい。
 その一つは、普段からの用心である。つねに心を配って、事故を未然に防ぐことが肝要である。それでもなおかつ防ぎえないことはある。だが、そうした普段の用心がなされた上であれば、起こったとしても、小さくできるし、賢明に対処できるのである。
 もう一つは「けなげ」つまり勇気である。これは、事故が起こってしまった場合の、こちらの心の姿勢である。
「けなげ」とは避けられないのに避けようとしたり、逃げようとするのではなく、真っ向から取り組んで、解決しようとすることである。それが結局、災厄を最小にする方法であり、この姿勢を全うした場合には、かえって災いを福と転ずることもできるのである。
 そして、これらの根底にあって大事なのが “法華経の信心” であると大聖人は教えられているのである。「前前の用心」において大切な働きをするのは、知恵である。
「けなげ」の原動力となるのは、生命の力である。この生命力と知恵を豊かにし充実させる源泉が法華経の信心すなわち南無妙法蓮華経の御本尊への強い祈りにある。

運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず
 百の努力をしても、八十の結果しか出ない場合もあれば、百の努力が百の結果を出す場合もある。あるいは、百の努力がマイナス二十の結果になってしまうこともある。個人の生命においても、調子のよい時と悪い時とがあり、さらに、人間一人一人の間に、調子よく人生を歩める人と、なにをやってもうまくいかない人とがある。
それは、人間の理解の範囲を越えたものであり、それを古来、人間は “運” 或は “運命”と名づけてきた。
 この“運命”は、いったい何によって作られ決定されているのかという点について、キリスト教では、神の意志、思召しによるとし、中国では“天命”によるとし、仏教では、その人自身の過去の行為の善悪の集積によるとする等々。
この違いがあるが、“運”というものを考える点では、東西共通のものがあるといってよい。
 それはともあれ、もし、運がもはや尽きてしまえば、兵法すなわち、いかに努力を尽くしても、期待したような結果は得られない、というのである。この場合の“運”とは、この人を幸福に導いていく方の “福運” であることはいうまでもない。
 また、果報とは、過去の行ないが因となって生ずる果であり、その善悪によってあらわれる報いである。これも、この場合は、善の方のそれをいわれていることは、もとよりである。もし、果報が尽きてしまえば家来もつき従ってこなくなる、との仰せである。この所従とは、封建社会に武士として生きる四条金吾の場合は、家来ということであるが、ひろくいえば、自分の周囲にあって守ってくれる働きをする人々をいうと考えてよい。
 したがって“兵法”が、もしその人自身の知恵、努力であるのに対し“所従”はその人をとりまく周囲の人々である。もし運がきわまり、果報が尽きれば、いわゆる正報 (自分自身の生命の働きや力)・依報 (自分を取り巻く周りの環境や人々) ともに、自分を守ってくれる働きではなくなり、すべてがカラ回りし、自分は孤立化し、破れていくのである。
 この“運”を強くし“果報”を豊かにしていく源泉が「法華経の信心」である。ということは“福運”といい“果報”といっても、どこで誰かによって作られ、与えられるものではなく、自分の努力によって、これを築いていくのである。ここに、人間の主体性を確かなものとする仏法の、他のいかなる宗教にも見られない日蓮仏法の特質があるといえよう。

一切の守護神・諸天の中にも我等が眼に見へて守護し給うは日月天なり争か信をとらざるべき
 本来、諸天善神といい悪鬼神といい、人間の環境世界のもっているさまざまな力 (エネルギー) について立てられた概念である。たとえば、太陽の力が生命をはぐくみ、この世界を明るく照らし出し、熱を与えてくれる善なる働きを日天としたと考えられる。しかし、その同じ太陽の光と熱が、あまりにも強ければ、視力を奪ったり、渇きのために生命を奪ったりする。こうした生命を奪う働きを鬼神とするのである。
 このようにして、原始時代の人々は、自然界の事象のあらゆる働きについて、神あるいは鬼という概念を立てた。そして、それらのあらゆるものは、人間が文明を形成し、社会生活を営むようになるにつれ、権力者や権力機構の働きと結びつくようになり、ある帝王が太陽神の代弁者のようにみなされたこともあった。こうして、かつては、あらゆる神が具体的なイメージをもっていたのに、時代がくだるにつれて、抽象的になり、漠然としていったのである。そのなかにあって、太陽の力を象徴する日天・月の力を象徴する月天は、その元の実在が明瞭であり、このことを「我等が眼に見えて守護し給う」といわれているのである。
 ともあれ、諸天善神というものは、決して人間が妄想によって生みだされたものではなく、現実の人間を豊かにし、生命を与えている種々の力をいう。そして、その自然的環境、社会的、文化的環境のもっている力は、主体ある人間生命の反映にほかならないとの達観から、これらの力を善なる方向へ強め、悪の面の表れるのを抑制していくのが、仏法の思想である。
現代で言えば、この正しい法を広めようとする広宣流布運動、即学会活動こそ、その生き方にあたる。

彼の天は剣形を貴辺にあたへ此へ下りぬ、此の日蓮は首題の五字を汝にさづく
 摩利支天は“陽炎”と釈されているように、太陽の強い光にあたって起こす“かげろう”と関係がある。この摩利支天が古来、武士の守護神として崇められたというのは、相手にして戦う場合、太陽を背にして相手の目を眩ませるのが有利であったこととつながりがあるようである。
 そして摩利支天が武士の守護神ということから「剣形を貴辺にあたへ」といわれたのであろう。“剣形”とは、剣を扱う術、剣の技術である。それに対し、日蓮大聖人は仏法の極理、法華経の肝心である“首題の五字(妙法蓮華経)”を四条金吾に与えられた。この“首題の五字”を受持している故に、法華経の持者を守護する摩利支天の加護があったのだと仰せである。
 このことは、信心と生活上の知恵・努力、仕事の上の技術との関係を見事に教示されているのである。信心が根底にあって、生活や仕事や技術は生かされる。
この場合は、自分の生命が奪われるか否かという非常の場面であったが故に、御本尊への信心と剣術という直接的な関係であられたわけである。
しかし、一般的な意味での仕事上の知恵、努力と信心という場合においては、信心はその人の人間的魅力、目的観、責任感などの人格としてあらわれ、更には、その人の心の境涯が偉大なるものとして確立されることによって、その人格は生活上では知恵は豊かになり、努力は大きい実を結ぶのである。
 別の観点から言えば、信心さえあれば、生活上の種々の工夫や努力は自然に与えられるという考え方ではない。
あえていうならば、四条金吾のこの場合  “剣形” を与えたのは “摩利支天” の働き(エネルギー)であって、仕事上での技術や知恵を与えてくれるのは、先輩であり、生活の知恵や工夫を与えてくれるのも、親であり先輩であり、社会である。ゆえに、これらから謙虚に学ぶことが大切である。ただ、そうして得たものをいかに自分が使っていけるかどうか。またその先輩や社会から学んだ事が正しいのかどうかの判断も、実は自分自身の生命の傾向性に影響される。
悲しいかな三毒の生命 (貪りの心・怒りの心・愚痴の心) の強い人は、自ずから、それと似た傾向の人々と縁し、自分の知らないうちに自分自身が、ますます三毒が強くなってしまう。
創価の哲学を知ると知らないとに関わらず、人間は何もしないと今の資本主義国家・弱肉強食の社会・また日本の歴史から世襲した国の仕組みとしての官僚主義になっている以上、代々に渡り三毒の強情の生命の基盤が個人にも、社会の仕組みに厳然と存在するといって良い。
であるがゆえに人間社会は自然に不幸の原因に縁し続け、その生命体は増長し続けてします。
しかし、我が創価のリーダーは決して、そういう生き方であっては断じて成らない!!!
如蓮花在水 (にょれんげざいすい) の原理の如く、蓮の華という清らかな生命は、五濁の悪世という泥沼の中にこそ、その輝きが燦然と輝くのだ。
三毒の強い世間であるが故に、それをバネに飛躍台として、自分自身を鍛える事が出来るのではないか。それに負けない生命力こそ、日々、学会活動しよう!・勤行という祈りに御本尊との対話をしよう!・まず自分の身近な一人に、この信仰の生き方を語ろう!
この戦いを決意し、行動する人こそ、「妙とは蘇生の義なり、蘇(よみがえる) 義なり」との大聖人の結論を証明する人になってくれたまえ。最後に、
結論から言うと、信心とは、創価の三代の師弟の信心である。
これを根本とする生き方と努力の中に、自分自身の生命が磨かれ、善の生き方と善の選択を自然に可能に成らしめる事が出来ると、大聖人は仰せである。
これが人間革命であり、宿命から使命への転換の姿でる。ともあれ、不幸の原因の業の薄い皮が一枚一枚はがれる落ちるように、三代の創価の師弟を勉強して、その挑戦と努力の人は、大功徳の結果として現れるのは早いよ。

 

写真・碑文の意味

大聖人の信心とは、創価の三代の師弟の信心なり。

それは三代の師弟が法華経の通りのあらゆる法難を乗り越えたことにより証明された。私と私の眷属は、従藍而青の師匠の心を、万代にわたり広宣流布・人間革命に挑戦することを誓う! 三代師弟の歴史こそ、末法万年尽未来際までの原点として。

(引用元・一部解釈を変更しています )
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1430839.html

SOKA net 動画

soka-net

師弟の生命は永遠に若い

2014:8:31:naha-okinawa

 

空には、鳥の飛ぶ道がある。

海には、魚の泳ぐ道がある。

人には、人の歩む道がある。

人間が、最も人間らしく、

価値ある人生を歩み、

向上していくための道が、

「師弟の道である」

人間だけが、

師弟をもつことができる。

師弟の道によって

自分を高めていける。

ここに、人間の究極がある。

後継の青年たちには、

伝え遺せる限り

私のもっているものを

すべて伝えたい。

一切の後事を託したい。

その私の心を、

弟子たる君たちは

深く知ってほしいのだ。

若き日に人生の師に巡り合い、

真実の人間錬磨を

受けることは

青春の最高の誉れである。

この人生の神髄がわかれば、

富や名声などの飾りに

惑わされることもないし

何ものをも恐れることはない。

真剣勝負の出会いは

人の心を変え、生命を変える。

さらに地域を変え、社会を変え、

世界をも大きく変えて行く。

師匠と近くにいるから

偉いのではない。

師匠の「心」を身に体して、

現実の上に

実現してく人が偉い。

どんな場所であれ

どんな立場であれ

その自覚があれば、

立派な弟子の戦いはできる。

「心」が大事なのである。

正しき師匠を求め

師の心に応えんとする

弟子の一念こそ、

前進と勝利の本因が刻まれる。

師弟に生き抜く生命は

永遠に若い。

その人が

永遠の青年なのだ。

 

池田名誉会長・光の言葉 幸福の曲 2014/8/31  聖教新聞より

 

 

御書と師弟 第1回 三変土田 (上)

沖縄研修道場

沖縄SGIの心は政治の世界にも強い信念で戦い続けています。
会員の師弟の絆と”戦争絶対悪”という、ウチナーンチュ(沖縄人) の心は正邪の判断はあまりにも明確です。自公連立政権の大義名分は歯牙にもかけませんよ。

池田名誉会長講義 御書と師弟 第1回 三変土田 (上)

『心の一法より国土世間も出来する事なり』 御書 総勘文抄 P563
との御聖訓は、仏法の奥義です。「一念」は即「三千」の次元に広がる。人間の「心の一法」のあり方しだいで、国土が善くも悪くもなる。
人類の精神史は、この「心の一法」の探求の歩みでもあったといって過言ではない。戦争も、飢餓も、地球環境の問題も煎じつめれば、すべて人間の「心の一法」に帰着するからです。

3回にわたる浄化

さて「三変土田 (さんぺんどでん)」とは何か。これは、今いる国土を仏国土に変えていくという変革の法理です。「三変」とは、三度にわたって変えること。
「土田」とは、国土・土地・場所の意味があります。
法華経には「虚空会の儀式」が説かれます。すなわち、輝きを放つ巨大な宝塔が大地から出現し、全宇宙から諸仏が集まって、虚空(空中)で釈尊の説法が行われます。
ところが、最初は、宝塔の中にいる多宝如来は姿を現しませんでした。宝塔の扉は固く閉ざされたままです。この扉を開く条件として、諸仏が来集することが必要であった。そのためには、仏が集うにふさわしい国土(仏国土)に清めることも必要となる。そこで釈尊が、三回にわたって国土を清めたことを「三変土田」というのです。

一回目―釈尊は眉間から光を放って、無数の国土にいる仏たちを見ました。それぞれの国土では、さまざまな仏と菩薩が妙音をもって法を説いていた。この仏たちが、それぞれに従う菩薩に「私は今、まさに娑婆世界の釈尊の所へ行く!そして多宝如来の宝塔を供養するつもりだ」と告げる。
宝塔が涌現したことを知るや、釈尊と多宝如来にお会いするために、無数の仏たちが続々と結集してくるのです。
無数の国土とは、現代的に言えば他の無数の星々といえるかも知れない。宇宙のすみずみで活躍してきた諸仏が、弟子たちを引き連れて、この地球上の霊鷲山に集ってくるのです。なんと雄壮なスケールでしょうか。
この仏菩薩を迎えるために、釈尊は大地を瑠璃で彩り、宝の樹で荘厳しました。
芳しい香りが広がり、曼荼羅華で敷き満たされます。この浄土に大宇宙から集まった諸仏は、一人ずつ「獅子の座」に座る。これが一回目の儀式です。

二回目―最初の浄化が行われても、全宇宙からやってきた諸仏は膨大な数で収まりきれません。そこで釈尊は、さらに八方のおのおの二百万億那由他もの国土を浄めます。それから無数の国土は、すべてつながって、想像を絶する広大な一つの仏国土が出現します。
しかし、それでも、全宇宙の仏が集まるには十分な広さではなかった。

三回目―二回目と同様に、八方のおのおの二百万億那由他の国土を浄化し、すべての国土がひと続きとなった、さらに壮大な仏国土が出現します。
三回目の浄化の結果、この娑婆世界と、合わせて八方の四百万億那由他もの国土が全部一つの仏国土と化して、そこに十方の分身仏が満ちあふれるのです。
これで条件が整い、ついに宝塔の扉が開かれます。多宝如来が見守る中、大衆が空中に導かれ、虚空会の説法が始まる。
釈尊は大音声で告げました。「誰か能く此の娑婆国土に於いて、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり」未来の弘教の呼びかけです。

未来を担う人材群

「三変土田」の本質とは、宇宙の広がりをもって、無数の弟子が勇んで師のもとに馳せ参じる荘厳な師弟のドラマといってよい。ここから、遠大な未来の広宣流布へ誓願の人材郡が打ってでるのです。
師弟こそ、一切の原点です。
師弟こそ、勝利の源流です。
この虚空会の儀式の開幕は、法華経の「本門」への起点となっています。久遠の師弟が織りなす「本門の舞台」を開いたのが、この「三変土田」です。
仏眼・法眼で見れば、今、日本そして世界のあらゆる所で、仏国土が築かれつつあります。絢爛たる民衆凱歌の「本門の舞台」が実現しているのです。
いよいよ、「本門の弟子」が躍り出る時代が到来しました。
2008-12-11 聖教新聞掲載

御書と師弟 第2回 三変土田 (下)

沖縄研修道場より東シナ海

◇ 池田名誉会長講義 御書と師弟 第2回 三変土田 (下)

信心の力で人生を勝ち開け

わが師・戸田先生は、よく言われました。「私は、信心のこととなると、強情なまでに辛抱強いんだよ」と。

広宣流布は、巌窟王の如き執念をもって、たゆみなく挑戦を続ける大闘争です。

わが学会の闘士が、悪口罵詈の渦巻く中、どれはど忍耐強く勇気と誠実の行動を重ねて、わが国土を変えてきたか。それは、まさしく「三変土田」に通じます。

三変土田──この婆婆世界の変革は、なぜ、三回にわたって行われたのか。

この点について天台大師は、婆婆世界を浄め、「方便土」「実報土」そして「寂光土」にした、と意義づけています。

「方便土」とは「二乗」などが住む世界、「実報土」は「菩薩」が住む世界、「寂光土」は「仏」が住む世界です。

天台はまた、「三惑」という惑いを破ること、すなわち一回目は「見思惑」を破ること、二回目は「塵沙惑」を、さらに三回目は「無明惑」を破ることだ、とも論じています。

この三惑に打ち勝って、仏の境涯を顕す象徴とするのです。

ともあれ、大事な点は、釈尊が、間を空けずに、二度、三度と、連続して国土を変え続けたことにあります。第二波、第三波とうねりを起こし続けてこそ、偉大な変革は成し遂げられる。

人間革命のドラマ

実は、もう一歩深く日蓮仏法から見れば、この挑戦を起こした瞬間、生命は大変革を遂げています。一念が深く定まれば、三惑は瞬時に打ち破られるからです。だから国土も変わらないわけがないのです。

三変土田とは、狭い心のカラを決然と破る「人間革命」の挑戦そのものなのです。そのために、妙法を朗々と唱え、師の心をわが心として広宣流布の行動を勇敢に開始するのです。「いつか」ではない。「今この時」が勝負です。

人類を結ぶ大瑞相

「文明論」の観点から言えば、三変土田は人類文明の共和の象徴です。十方世界のそれぞれにいた仏が集まり、一つの仏国土の中に遍満し、融合する。虚空会の舞台は、人種や民族、文化や国士の違いを超えて結び合う理想郷です。

また「生命論」から言えば、妙法は大宇宙の法則です。私たちが妙法を弘めるところ、全宇宙の諸仏・諸菩薩が喜び来って、必ず、その人を讃え守護する。三変土田から始まる虚空会の説法は、この約束といってよい。

この法理を、現実の荒れ狂う世界で展開しゆくのが広宣流布です。広布に生き抜くことは、

貪・瞋・痴という三毒に満ちた社会を、仏国土に大転換しゆく三変土田の戦いなのです。

さらに三変土田を「境涯論」から論ずれば、釈迦・多宝の二仏が、いかに無量無辺の徳を具えていたかを示しています。

三変土田は、三世分身の諸仏の統合の原理でもある。全宇宙の仏菩薩が、法を求め、師を求めて、はるばる娑婆世界に来下してきたのです。法華経を説く仏とは、それほどまでに広大無辺な慈悲と英知に満ちた偉大な境涯なのです。

それは、根底にある妙法の偉大さです。そして、妙法に生き抜く創価の友も、この境涯を開いていけるのです。

今、世界中から多くの指導者が続々と、創価の城に来訪されております。中国をはじめアジア各国、そしてキリスト教・イスラム教・ユダヤ教など諸文明を代表する賓客が、創価の哲学と運動に、心から共感されております。妙法を根幹とした我らの人間主義に深い共鳴を示され、連帯していかれるのです。

世界中の都市からも、最高学府からも、名誉称号をお贈りいただいております。

すごい学会になりました。この姿こそ、人類を結ぶ三変土田の大瑞相ではないでしょうか。

粘り強く現実変革に挑戦を!

満々たる生命力で

さらに、全国の津々浦々の学会の集いにも、地域の名士の方々が喜んで参加される時代になりました。我ら師弟の大城は、まさに千客万来です。皆様方のお力で、「妙法独り繁昌せん」(御書502ページ)の御金言は現実のものとなったのです。

わが支部、わが地区、わがブロックで懸命に友を励まし、心を変えゆく対話。その真剣な戦いは、すべて三変土田の栄えある勝利の劇です。小さな地域であっても、大変な地域であっても、ここがわが今世の黄金の晴れ舞台である──この一念髄喜の心が一切を決めるのです。

戸田先生は言われています。

「日本国中に、さかんなる力士のごとき人々が充満するならば、生産に、復興に、文化に、芸術に、その最高度の能力を発揮するがゆえに、国土の再建は、うたがうべくもない」

「さかんなる力士のごとき」とは、一人一人が満々たる生命力で躍動している様子です。「人間革命」に挑み、幸福の実証を勝ち示している姿です。

こうした勝利の活力が充満すれば、社会を大きく変えていける。やがて世界の宿命をも大転換していけるのです。

私は戸田先生の不二の分身となって、死に物狂いで戦った。正義の叫びで、一人一人の心を一変させていった。その地その地に、師匠の大生命を打ち込む決心で戦い抜きました。

仏法の眼で見れば「娑婆即寂光」です。国士も「心の一法」から出来する。わが一念から起こり、わが一念に収まるのです。

地震や台風や冷害などの災害に見舞われた地域の方々に、私はこの三変土田の法理を語り、共に祈ってきました。

阪神・淡路大震災をはじめ、北海道、中越、東北、北陸などの大地震。長崎、三宅島などの噴火。また沖縄、九州、四国、中国、中部など豪雨による被害……。どの地でも、学会の同志の献身的な救援活動や復興の努力が希望と勇気を広げ、地域の結束を強めました。「わが町の復興は、学会があればこそ」などの感謝と感動の声が、私のもとにも数多く寄せられてきました。皆様は、見事に変毒為薬してこられたのです。

中国の高名な歴史学者であられる章開●(しょうかいげん)先生(華中師範大学元学長)は、私との対談で、中国が雪害や大震災などの苦難を乗り越え、本年、北京オリンピックを大成功させたことにふれ、こう述べておられました。

「温家宝総理が被災地の人民のために『多難興邦(難が多いはど奮起して国を興そう)』と揮毫したように、震災は全国人民、ひいては全世界の華人(中国人)の心と力とを、祖国の復興という一点に向かわせました。全国の人民が奮起し、心を一つにして困難を乗り越えようとした結果、千年に一度あるかないかの巨大な災難に打ち勝つことができました」と。

民衆の「心の力」は偉大です。それを無限に引き出す哲理が、一念三千の法理です。

一人一人が地涌の底力を出せば、三世十方の仏菩薩にも勝る力が涌現する。断じて宿命を転換するのだ! この国土世間を三変土田し、安穏にして天人が充満する楽土を必ず建設するのだ!──これが大聖哲の御確信です。

必ず打開できる!

今、日本も世界も、大変な経済不況の中にあります。しかし、仏法では「一心の妙用」(一念の不思議な力)を教えている。断じて負けない信心の一念があれば、必ず必ず打開できることを確信していただきたいのです。私も妻も、全同志の皆様方が厳然と守りに護られ、一人ももれなく勝ち栄えていかれるよう、一心不乱にお題目を送っております。

仏国土を開く儀式は、二度、三度と繰り返されて成就しました。三変土田の挑戦は、粘り強く、繰り返すことが大切なのです。苦しいときこそ、「強盛の大信力」(御書1118ページ)で、祈りに祈り、何度でも挑戦し、断じて断じて未来を勝ち開こうではありませんか。

詩聖タゴールは謳いました。

「国は人間が創造したものです。国は土からできているのではなく、人々の心でできています。もし人間が輝いていれば、国は顕現されます」(我妻和男訳)

今や妙法は世界192カ国・地域に広がりました。創価の運動は「人類模範の善の連帯」と期待されております。私たちの“地涌の三変土田”が、世界を大きく動かしつつあるのです。

広宣流布の舞台は新段階に入りました。大聖人の仰せ通り「二陣三陣つづきて」(御書911ページ)、新しい人材が勇み立つ時です。これこそ「青年・勝利の年」です。

全国、そして世界の各地で、創価の師弟の旗を掲げ、社会に貢献しゆくわが同志こそ、誉れも高き三変土田の仏の大行進なり! 私は心からこう賞讃したいのです。

池田名誉会長講義 御書と師弟 第2回 三変土田 下〔完〕

2008-12-12 聖教新聞掲載

誓いの青年(きみ)よ

♠新学会歌・誓いの青年 (きみ) よ

ある日のメールより・・・(略)

信濃町の学会本部まで行って、創価文化センターで創価の哲学と広布の歴史を学び、隣の信濃平和会館で、1時間の唱題に挑戦して、広宣流布へと戦う、人間革命の師子となって、帰ってきなさい❗️❗️❗️


一日も早く、誓いの戦いを開始しようではないか。
世界には、君を待っている子供達や友達がいるよ。
君の人間革命した勇姿を渇望して待っているんだ。
今、君が人生の転換期とすべきビジネスの成功の裏付けには、実は広布誓願にかける、人間革命運動が最短ルートなんだよ。

ビジネスを行うのも人間。
それを支え、恩恵を受けるのも人間だ。
全てが一人の人から始まる❗️

故に、君自身の人間革命なくして、人生の事業の成功はあり得ない❗️

実は、今まで論じなかったけど、君が見てきた世間の成功と違って、広布誓願への人間革命運動は、君の生命に巣食う根源的な宿命を、君自身が世界市民としての自覚に立ち「平和と幸福と。そして人類史を幸福勝利へと繁栄させる大転換への戦いを”君自身の使命の自覚”に変える事が出来る❗️
それは君に縁する一人一人に平和な社会と福運と繁栄の種を蒔くことになる。

君に縁する一人一人が「仏の縁」を強くすることにより、友の善根は、いつの日か開花するんだよ。

この人類史を大転換させる事実の戦いが、また正義が、御本尊の功徳であり、仏の生命だ。これが仏の大境涯だよ。
私達の信仰は、一人一人に人間革命を強く促している。一人の生命の中に変革を促すから、前代未聞の難事中の難事だ。

だからこそ、最高の価値がある。この戦いは苦難をあえて、呼び起こす勇気があるか、ないかだ! 君自身の一人の勇気の決意で、戦いを起こせば、その瞬間から “最高の正義”となり、自身の正義の人格を創る人間革命運動となる。

ただし、弱い正義ではいけない❗️

正義は勝ってこそ証明される❗️

過去の歴史は正義が負けたから人類の悲劇が刻印されてしまった。

20世紀の戦争の宿命の歴史から、21世紀は恒久平和の使命の歴史へ。と大転換の情熱を加速度を増していきたい。

信仰に裏付けされた「人間革命」の勝利の姿で、人生のすべてを勝ち飾って行きたい。

君には本然的に勝つ力がある❗️ 断じてある!

若くして、人の何倍も苦労し、人の何倍も苦しみ、人の何倍も悔しい思いをした君ではないか。

御本尊は、すべて知ってるよ。

あとは誓願の戦いに挑戦しよう!    私は、君のために何倍もお題目を送っているよ。父子の共戦譜は、師弟の誓いの共戦譜だ。

将来の学会員は、君の戦いを手本として、教科書として、”我が戦いを見よ!”      ”我が人生の勝利の姿を見よ!” と。

先生の「人間革命」の証明を、今度は君自身の戦いで「人間革命」に登場する君の黄金の歴史を待っている! 弟子が証明してこそ、師匠の正義が満天下に明らかになる。

「師弟」とは、弟子が勝ってこそ、師匠の存在があることを忘れまい。

従藍而青 (じゅうらんにしょう) は師匠の心だよ。

 


父より^ ^

負けじ魂、ここにあり!

スポーツの世界では、必ず勝者と敗者がいる。

勝って次の高みを目指すのだ。負けても自分に負けなければ、それ自体、勝ちに等しい。

彼は、大学3年の春に右足靱帯断裂という大怪我をした。「全国体育系学生柔道体重別選手権大会」に準優勝した後のことだった。全国一を目指すアスリートしては致命的であったに違いない。

次の年、3.11の大震災の春には卒業を控えていた。彼は、新たな希望の出発もなかった。しかし震災の時に卒業したのだ。

「いかなる困難にも断じて負けない」という誇りは更に自分を強くした。

だが、試練はそれだけには終わらなかった。

昨年の3月に、今度は左足の靱帯も断裂したのだ。この夏の「全日本実業柔道個人別選手権大会」にはエントリーさえも出来なかった。

そして、今年の夏の大会。

最初の大怪我から、3年半を過ぎた今、不倒・不屈の負けじ魂は、4回選まで、オール1本勝ち。準決勝で敗れたが「講道館杯」出場という栄冠を彼は、彼自身の手によって獲得したのだ。

表彰式には、同じく3位入賞の「野村忠宏」(38歳・五輪3連覇) 選手から先に前に行くように言われた。若い選手を育てたいという彼の人柄を感じたという。

ホイットマンは詩たった「さあ、もはやここにはとどまるまい。いざ錨をあげて船出をしよう」

次への挑戦の時は始った。

全日本実業柔道個人別選手権大会

全日本実業柔道個人別選手権大会表彰式

表彰式 (兵庫県尼崎市・ベイコム総合体育館) 右から、仲村・野村(3位)、石川(優勝)、矢野(準優勝)  2013年8月31日

なぜ、公明党なの?

The Why koumeitou
なぜ、公明党なのか

初めに、政治に対しての基本的な事を学びたいと思います。

宗教がなぜ、政治に関わりを持つのか。

宗教の持つ意味とか役割は何か。
一言で言うと、それは信仰を通して、自分自身の成長と、同時に他の人々とも深く関わりを持って、社会そのものをより良い方向へ信仰を持つ一人ひとりが、主体性をもって活躍していくもの。
これが宗教の役割です。これが本来の宗教が社会へと関わりを持つ意味です。

そして、政治に関わりを持つのがなぜ、重要なのか。
それは、政治を司るのが人間だからです。社会を良くするのも人間だし、悪くするのも人間です。平和な世の中で暮らすのも、また戦争の世の中になるのも、同じ人間の仕業です。その構図はこれだけ文明が進んでも、過去の歴史の教訓を教えても、人間の生命に刻まれた運命にも似た”宿業”は実は進化してはいないのです。

それは政治というのは、権力です。国民一人一人から税金を集めて、その使い方を決める権利があります。これがひとつの権力です。例えば、国の政治は国会議員という人達が権力を握っています。日本の国は武家社会の歴史がありましたので、武士、イコール、刀で農民や商人を支配してきました。今風にいえば、軍事国家・独裁政権です。外国は今でもあります。

日本の今の世は、主権在民といって、国民が主権者ということになっています。但し、形だけです。国民が主権者であると憲法では書いてあっても、一個の人には、行政権も司法権も、ましてや法律を作ることはありません。なぜなら、選挙という投票するという行為で議員を選び、その議員に国の運営を任せるという仕組みです。主権在民といっても、結局は選ばれた議員が権力を行使しますので、私たち選ぶ側が、賢くならなければなりません。ここに最も大事な意味があるのです。

例えば国会議員の場合は、選挙制度の仕組みのひとつに、国民の半数の投票で当選となりますが、実は、選ばれた権力者にとっては、投票率はあまり関係ないのです。むしろ、無関心の国民が多い方が都合が良いのです。最近の投票率は、国政レベルで55%から60%程度。多くの国民が選挙には行かないのは、理由はどうであれ、当選した人にとって、その選挙に行かない有権者から信任された。という仕組みになっていますから、実際、「政治には関心がない」というのは、権力者にとっては最大のメリットになります。逆に国民にとっては最も危険な行為になってしまうのです。

ここに、創価の哲学が生きる、最大の理由があるのです。
国民よ、賢くなれ。政治家に騙されるな。戸田先生は「特に青年は、心して政治を監視せよ」と指導されたのです。先ほど、お話したように、人間は、ひとたび権力を握ると、その欲望と魔性と、甘い罠に、完全に虜になってしまいます。軍事力を持てば、戦争をしたがります。経済力を持てば、もっと欲しがる。過去の歴史がそうでした。

創価の哲学は君に強く、訴えています。
それは「信仰を通して、自分自身の人間革命に挑戦せよ」と教えています。そして、大聖人が立正安国論で、時に執権、政治の最高権力者に対して、「汝よ、民が自分の親と思って、政治を司りなさい」と言われたように、国民に奉仕するのが政治家です。

今、私たちが支援している公明党。それ以外の政党は他にもあります。本来ならば、他の政党の事もよく勉強して、そして公明党と比較すべきです。唯我独尊ではいけません。

世俗的にいえば、どの政党も国民の為。主義主張は違っていても、悪い世の中を作ろうとは思っていないはずです。

では、なぜ、公明党なのか。
根本的には、公明党の議員は、朝晩、勤行しています。私たちと一緒になって創価の哲学を広めています。絶対平和主義です。一人の為に政治を司ります。そして共々に人間革命に挑戦しています。

と、いうと折伏になってしまいますが、宗教色を出すと誤解と偏見の人たちには、ここで話が止まってしまいますので、自分自身の決意として、心の中に想いとして押さえておいて下さい。

政治家として具体的に政策を掲げて、どのような活動をし、また具体的に何を実現したか、これが政治力です。

それは、参議院から始まったのです。
1956年(昭和31年)、当時はまだ、公明党はありません。創価学会推薦の候補が、3名当選しました。
大阪事件の淵源になった事は、小説・人間革命に紹介されています。戸田先生の命を受けて、池田先生一人の戦いから、「常に庶民の中へ」。「常にひとりの人間の中へ」。との思想が公明党結党と繋がります。

そして、1964年(昭和39年)、参院議員15人。地方議員1200名余りの陣容で公明党が結成されました。
腐った既成権力の壁や困難な課題に次々と挑戦し、日本の政治に「新風」を吹き込んできました。
今は、地方議員3000人を要し、「チーム3000」の名前で、全国、公明支援の活動を展開しています。

公明党の中心となったテーマは大きく2つです。

結党当時、既成政党から「福祉を唱えるのは素人」「福祉は政治ではない」などの的外れな批判の中、公明党は「大衆と共に」の立党精神を胸に、堂々と「大衆福祉」の旗を掲げて奮闘。国民の切実な願いに耳を傾け、義務教育の教科書無償配布や児童手当などを粘り強く実現し、「福祉」を政治の柱に沿えました。
これが、1967年9月から実現したことにより、「福祉の公明党」の原点になったのです。

もうひとつは、「現場第一主義」の伝統は今でも脈々と受け継がれているということです。
高度成長時代、公明党は全国で「公害点検」を展開。現地調査をもとに「産業優先」から「生命尊厳」へ。創価の哲学です。これを当時の政府へ政策転換を迫り、イタイイタイ病をはじめ、数々の公害病認定への突破口を開きました。その公明党の現場第一主義の姿勢は、今も「通学路総点検」「介護総点検」「防災行政総点検」など、脈々と受け継がれています。
ここ沖縄の新都心の米軍施設返還へむけて、「基地総点検」を行ったのも、公明党です。

そして、今現在の政治です。
「安定」がテーマです。
民主党政権の期待が裏切られただけではなく、この4年間で、ますます経済が低迷しました。沖縄の基地問題も混乱の度合いを増してしまいました。
元気だったのは唯一、民間部門です。国はいやまして借金。昨年暮れに、政権を取り戻しましたが、国会は2院制です。衆院議員では与党でも、参院の議席は、まだ民主党の議員が一番、多いのです。

両足を踏ん張る人がもっとも力を発揮するように、政治の安定こそが、この国の経済や、外交。そして何よりも人々の生活を強くします。
その安定には、きめ細かな生活者目線を持つ公明党が柱にならなければいけない。また安倍政権は、ある意味民主党政権の反動で人気があるように見えますが、国民の多くは、自民党を支持しているわけではありません。支持が高いからといって、右翼的な傾向も読み取れますが、その歯止めになるのも政権与党に加わっているからストッパーの役割が可能なのです。

いずれにしても、無党派という人達が4割を超えているのは、政治に対して不信感を抱いているからです。
だからこそ、話さなければなりません。対話を通して声を出さなければならないのです。創価の哲学を語るのです。

「立正安国論」を現代に蘇らせたのは、創価の三代の師弟でした。それはそれは、権力からの迫害と、経文に説かれる三類の強敵も呼び起こしたのです。創価の哲学を語るのは立正安国論の実践そのものです。
公明支援の活動を通して相手の仏性に語りかけているのです。
いずれにしても、もっともっと勉強して何が根本的な正義なのかを知らなければなりません。

公明党は全体からみたら、5%の勢力かもしれません。しかし、その5%は、強力な5%です。
絶対支持の5%は、実は、その何倍もの支持者を巻き込みます。実際の得票率はその2倍から3倍が過去の実績です。
そして、その絶対平和の勢力は5割を超える力になります。自民党も公明党の支援がなければ勝てません。これが全国の選挙区で起こっています。

頑張りましょう。戦いましょう!!!
2013年6月19日