広布誓願の青年部幹部会

広布誓願の第五回全国青年部幹部会

創立80周年、現世において先生と共に戦える瞬間に間に合って良かったね。

幾山河 越えゆき 激戦勝ちにけり 創価の城は 今日も晴ればれ?

大切な また大切な 広宣の 同志の生命は 三世の仏か

断固たる 正義の指揮執る わが弟子が 晴れて勝ち抜き 歴史を残せや

6月4日の聖教新聞の冒頭に先生から三首の和歌が掲載されています。

広布誓願の第五回全国青年部幹部会。

仏法の眼から見た「時」について先生はお話をされています。

以前、先生は体調を崩された以外、本部幹部会を欠席された事はありませんでした。

ところが今回は、あえて「弟子よ!、いつまでも私に甘えるな!。

指導すべき事はもう既に何度も話しをしてきたではないか。

今度は私が居なくても弟子が私と同じ生命で歴史を残せ」との、

訓練の場所が創価国際友好会館になったのです。

先生はお元気です。

同じ館内の別室で会合の様子をモニターに見ながら、一つひとつ指示を出されながら、

伝言を何度も何度も送っておられました。

会合参加者を始め役員のメンバーは会合開始30分前まで、

先生が今日の本部幹部会に出席しない事は誰も知りませんでした。

だからこそ、先生が居なくても、

それ以上に大成功させてみせるとの決意を新たにした会合になったのです。

出席者は、今直接先生から訓練を受けている、との広布誓願の会合にしたのです。

初めに わが友よ「大山」「大桜」の如く 墨痕鮮やかな書が紹介されました。

脇書きが大事です。 先生がその思いに託されています。

「大山」 (たいざん)

「わが友よ 嵐に不動乃信心たれと祈りつつ」

「五十四年五月三日創大にて 式後 記す也」

「大桜」 (おおざくら)

「わが友乃功徳満開たれと祈りつつ」

「五十四年五月三日創大にて 合掌」

昭和54年5月3日、第三代会長辞任の本部総会、場所は創価大学の中央体育館。

その日、先生は学会本部に戻らず、その日の夜に神奈川文化会館へ。

(後に、学会本部にはもう私の席はなかったよ・・・と述懐)

神奈川文化で認めたのが 「共戦」

2日後の五月五日に 「正義」

この時の模様の詳細は、「未来を開く君たちへpart3」に詳しく書いています。

そして時は80周年。今の時代は次の時代を創る分岐点に差し掛かっています。

先生のメッセージを紹介します。

法華経の会座において、幾度も繰り返される弟子の誓願があります。

それは”私たち弟子は、師匠の仰せ通りに広宣流布を成し遂げます。

どうか、ご安心ください。心配なさらないでください”という誓願です。

この表現が今回の会合になったのです。

更に今、私も、戸田先生とまったく同じ心です。

君たちに万事を託していく総仕上げの「時」を迎えているからです。

師匠の薫陶に応えて、弟子が今一重の深い自覚をもって立ち上がる時に、

未来を開く新しい前進と勝利の息吹が生まれるのであります。

戸田先生の愛弟子として、私は行くところ向かうところ、

「立正安国」の勝利の旗を打ち立ててきました。

正法正義のために、師匠の分身として勇敢に激戦に飛び込んでいく弟子には、

仏と同じ智慧と力が必ずわき上がってくる。

これが妙法の絶対の功力であります。 

先生と呼吸を合わせる事が師弟不二です。

師匠とは仏の境涯です。

その師匠と弟子の心が一体になる時に仏と同じ力が発揮できるのです。

1・強盛なる祈りで勝て

2・異体同心の団結で勝て

3・勇気と執念の行動で勝て

と具体的にメッセージに託されました。

民主党政権はトップ2人の交代と新首相を発表しました。

マスコミは看板の挿げ替えと表現しましたが、仏法の眼から見たら、

第六天の魔王は自分の首を切ってまで参議院選挙に勝とうとしているのです。

敵は死に物狂いです。だからこそ仏の軍勢はそれ以上の力を出さなければならない。

真剣でないと勝てないのです。

自民・民主にも依らない第三の勢力がどこになるのかが焦点です。

ここに将来の分岐点の意味があります。

いずれにしても、「立正安国」の戦いは、

間断無き仏と魔との連続勝利の中にしかありません。

過去を振り返れば勝ち戦、そして未来を見れば宝の中に入っていく人生。

これが仏の境涯である事を確認する戦いを開始して下さい。

7月は幾重にも意義深き月です。その詳細は本日4日付けの新聞を熟読して下さい。

2010年6月4日

『21世紀まで後30年、大いなる希望』

3月度全国本部幹部会より

未来を拓く君たちへpart12

今より40年前の1970年、当時の少年少女部員に先生は詩を贈られました。

『21世紀まで後30年、大いなる希望』です。

その詩の内容が、後日少年部歌として全国に発表されました。

そしてその時の少年部・少女部の今は40代。壮年部世代です。

今月3月は全国壮年部幹部会として、子供達が「大いなる希望」を歌いました。

「お父さん頑張れ!」とのエールを送った本部幹部会です。

今、社会は乱世です。経済的な不況も当然としてこれから社会に出ようとする

新社会人まで、嵐の中に飛び込もうとする時代です。

現実社会で負けるな! 君には絶対勝利の信心があるではないか!

との先生の万感迫る激励の姿です。

3月号の大百蓮華に勝利の経典『御書』に学ぶ、如説修行抄の

最後の部分が載っています。大聖人御在世当時は鎌倉幕府です。

御書は立正安国論に始まり、立正安国論で終わるという位その内容で

大聖人のご一生は結論づけられています。

その立正安国論の内容は、幕府に対する「折伏」の書です。

当時の世相と経済を論じて、

その原因と解決はどこにあるのかを9問10答形式で書かれています。

冒頭から当時様子が綴られています。

それは飢饉と疫病による食糧不足や正嘉の大地震などで

牛や馬がいたるところで死骸化され、

それを片づける人々も無気力と挫折感に覆われている時代でした。

また人々も念仏思想である、この世を諦め

来世に極楽に行って仏なるという考えが広まっていました。

大聖人は、その思想そのものを喝破して、来世に仏になるのではなく、

法華経に説かれる仏とは、実は今を生きる人間の生命そのものの中にこそ、

仏性という尊極なる仏は存在するのだと。これを広めたのです。

ゆえに権力者とそれと結託する念仏者達から命に及ぶ迫害を受けたのです。

如説修行抄は、この法華経の通り人々を賢くし現実社会を変え行かんとする時には、

必ず大きな敵が現れるからそれを乗り越える信心を磨きに磨け!

我が門下は私(日蓮)と同じように、折伏と題目で汝自身の人間革命に挑戦せよ!

との大聖人の祈りなのです。

また他の御書にも、「この法華経が広まる瑞相には、大きな災い起るなり」とあります。

釈尊の予言書とも言うべき法華経には、そう記されています。

大きな災いとは何か。鎌倉時代での天災です。

また蒙古襲来等の世間を騒然とさせた時代背景は想像に難くありません。

また近代は第二次に及ぶ世界戦争です。その時に創価学会は誕生しました。

法華経の予言の通りです。そして今もまた乱世です。

ここ数年も世界各地で地域紛争は続いています。

今年もチリの大地震を始め世界全体が異常気象です。

それは自然界に留まらず人間界もリーマンショツクに始まった不況は、

日本においてはバブル崩壊時の不景気さえも大きいのです。

これは何を意味するのか。法華経では750年前の大聖人の時代。80年前の創価の誕生と。

釈尊の予言通り末法に入った今世紀は、人々の生命は「怒り・貪り・愚か」に支配され、

それが原因で騒乱や戦争が起ると記されています。

そしてその時代にはこの法華経で説かれる汝自身の生命を仏として開いて、

「怒り・貪り・愚か」に支配されている魔性の生命との間断なき戦いでなければ、

解決の道は無いとの断言です。

一人の人間の中に、仏の生命と魔性の生命と同時にあるのです。

人間界そのものが魔性に覆われた生命なのです。

それを仏性として戦う人が、切り開くのです。

何もしないと魔性の世界ですから自然に「怒り・貪り・愚か」の生命に

支配されてしまいます。

仏法では三類の強敵とも言い、第六天の魔王とも名づけています。

この第六天の魔王の究極の姿のひとつに政治権力者による

民衆・国民への迫害の形として現れます。これが戦争です。「怒り」としての姿です。

人間の生命の中に第六天の魔王が入るのか、

あるいは第六天の魔王が人間の姿になって行動を起こすのです。

いずれも、この世の中は第六天の魔王の支配する世の中には違いありません。

?この支配されたがゆえに、今の時代もまた乱世なのです。

法華経が世界192カ国地域に広がりました。

末法万年への序章です。その先駆けです。それは何を意味するのか。

如説修行とは師の如く、弟子もまた同じく魔性との戦いを開始せよとのご遺命です。

そして戦い抜いた生命は、仏の大境涯に入り未来永劫に幸福境涯の自分を創れるのです。

宿命を大きく使命へと転換できるのです。

今に生きる時も大きく幸福境涯に包まれ、

そして亡くなった後もまた自由に好きな時に好きな場所で、

そして好きな家族のもとに生まれるのです。これが生も歓喜、死も歓喜の生命です。

現在公開中の映画「インビクタス(負けざる者たち)」は、南アフリカ共和国初の

黒人大統領ネルソン・マンデラさんがラグビーを通じて

人種間の融和を図ろうとする物語です。

マンデラ元大統領は27年半に及び牢獄につながれていました。

その中で一冊の本と出合うのです。

それは池田先生が書かれた著書で自分と同じ境遇の人を知ったのです。

映画の中で登場する「・・・おお神よ」との詩は、先生の書かれたポエムの一節です。

自分自身の中に「神」を見たのです。

それは仏法で説く仏の生命を知ったのです。

ゆえに自分を牢獄につないだ白人を差別するどころか、逆に側に置きながら、

そして公務よりも白人のラクビーの選手の人の名前を覚える事で、

ひとりを激励することに最大の価値を見出したのです。

大統領就任以前の民間人として初めての来日の折、先生との会見が実現しました。

先生は当時のマンデラさんの事を良く知っていました。

最大に人間として尊重し讃えたのです。

その想いが大統領としての行動に繋がったのです。

先生の境涯がマンデラさんの心の中にある魂と共鳴したのです。

大聖人が最も生きる事に困難を極めて佐渡流罪中に、

「大いなる悦びあり」「人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」と

歓喜の大境涯を宣言されています。

また「当世・日本第一の富める者」と言われています。

それは大難で戦う渦中です。赦免されて鎌倉に帰って来た時ではありません。

まさしく最大に戦っているその時にこそ、

苦難のその時にこそ本仏としての立場を、法華経の経文通りに現じたのです。

この乱世を変革するには、

透徹した信心に立った仏としての大境涯を開く意外にありません。

逆に乱世であるからこそ、自分自身を創れるのです。

では実際どう行動すればいいのか。

それは先生と同じ心で思想戦を展開するのです。現実には声を出さなければなりません。

言うべき時に、言わないと憶病者になるどころか逆に魔王の家来になってしまう。

どこまでいっても「一対一の対話」しかない。折伏です。

そして自分自身も題目を唱え抜いて「我こそ妙法の当体」に染めあげるのです。

この戦いを開始する意外、現実社会では勝てません。題目と折伏です。

先生と呼吸を合わせた戦いは先生の境涯に触れる事です。

だから自分が思ってもいなかった力が出せるのです。

仏としての境涯に触れるからです。

そしてそれは自分の限界への挑戦ではなく、限界からの出発なのです。

心のどこかにある自分が限界を決めてします。

ところが先生の境涯に触れる時、思いもよらない自分の生命が発揮できます。

今こそ先生の指導を学ぶ時です。そして戦うのは今です。

これは創価の三代の戦いが今に結実しているからです。

先生との創立80周年の戦いは、

100年後150年後の後世の人々は教科書として学ぶのです。

未来の御書として今の先生と弟子達の戦いが語り継がれます。

それは世界広宣流布が今、始まったからです。

そして先生と共に戦う自分もまた教科書に載るような戦いに挑戦して下さい。

2010年3月12日

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一生成仏抄に学ぶ

未来を拓く君たちへpart7


今回は、大白蓮華2月号、「一生成仏抄」(いっしょうじょうぶつしょう) について

学びたいと思います。最初に66ページから73ページまで、一読して下さい。

そして背景と大意は61ページの下の部分です。

これを読んだ上で、講義に入ります。

御書は読む人も、そして講義する人も、共に戦う決意を固め合う事なのです。

そして学ぶのは先生の大境涯に触れるのです。生命の触発なくして信心はありません。

また御書は、一対一の激励の書です。

大聖人一人から弟子全員へではありません。

会合形式では、多くの人に呼び掛ける時もありますが、

師弟の信心は、一人から一人なのです。師から一人の弟子への継承なのです。

26日の「SGIの日」を記念した協議会には多くの会員が集っての会合になりました。

そこでも、先生は一人一人の近況を聞きながら、一人ひとりに激励されています。

先生の大境涯に学ぶのです。

では、最初に題名である、「一生成仏抄」、

人間は一生のうちに、成仏するという意味では、ありません

これが勘違いする部分ですが、その題名の意味は、

『ひとりの人間は、今現在その瞬間に、ありのままの姿で、

仏の境涯 (きょうがい) を開くことができる』 という意味です。

仏に成るのではありません。仏の境涯を自らの生命の中から開き、

そして現実社会を変える事を一生成仏と言うのです。

最初の御文の『若し心外に道を求めて~67ページ2行目の還同外見と釈せり』まで・・・

法華経は、生命そのものを説いた経典です。

それを日本の鎌倉時代に展開されたのが日蓮大聖人です。

御文の中で、

心外 (しんげ) = 自分自身の生命の以外と言う意味です。

道 (どう) = ここでは仏道修行であり、正しい生き方の意味です。

万行万善 (まんぎょうまんぜん) = これは、仏法の事全てという意味です。

ここでは仏法以外のことではありません。仏道修行の全てとも解釈できます。

大聖人は当時の諸宗派、釈尊から発した仏法の「万行万善」の生き方であっても、

本来の一個の人間の生命の中にこそ、仏の生命を見ていました。

この仏の生命を「南無妙法蓮華経」と名付けられたのです。

自分自身の中にある仏性を呼び・呼ばれて現れるのが仏の生命です。

生きとし生けるもの全てが「南無妙法蓮華経」の当体そのものです。

宇宙に貫かれたリズムそのものが南無妙法蓮華経なのです。

故に自身の唱える南無妙法蓮華経という音律が全ての生命に反響し、

自分自身の胸中に仏性が現れるのです。

「若し心外に道を求めて」~始まる冒頭の一節も、

一生成仏抄の結論から入られているのです。

仏法といっても、実は自分自身の生命の中にしか、仏法は無いのです。

との大聖人の御指南です。

人間的な例として、現代的に約すると、銀行員が預金者のお金を数えても=「隣の財」、

けっして自分のお金ではありませんよ。との比喩を用いています。

天台大師の「若し心を観ぜざれば」=

自分自身の胸中にある仏としての生命を出さなければ、という意味です。

そして、重罪というのは、人間生命には、三毒といって、

「怒り・愚か・貪り」という生命の傾向が常に出てきてしまうというのです。

今のこの時代が末法 (まっぽう) とって、三毒強情 (さんどくごうじょう) の人々が

多く生まれてくる時代です。

これらの人々の三毒。これが滅しないばかりか、

逆に自分自身の胸中にある、仏としての生命を出さない仏道修行は、

無量の苦行 =苦しい活動になるというのです。

ここでいう外道とは、日本語で広く悪い意味で使われる外道ではなく、

仏法で説く内道の意味である、「自分自身の生命は過去・現在・

そして未来にわたって、永遠に存在する生命」を否定する意味での外道で、

人の生命は、この世だけであるという考え方です。

これが内道 (仏法) との根本的な違いです。

ここまでが、「還同外見と釈せり」=

仏法を学び、修行するといえども、還って外道と一緒になってしまうよ。

ということです。

では、自分自身の胸中にある仏としての生命を出すには、

どうすればいいのか、これが次の御文です。

然る間・仏の名を唱へ=南無妙法蓮華経という題目を唱えるという意味です。

経巻をよみ=勤行です。

そして、華をちらし香をひねる=鎌倉時代の習慣としての信仰のひとつでした。

今に置き換えれば、仏道修行以外の全ての生き方、

仕事であれ、家事であれ、人間としての行動全般の事です。

この人間としての生き方は、題目を中心として、全てにわたって「功徳善根なり」=

決定(けつじょう)した人の一念の事です。として信心をして行きなさいという意味です。

『皆我が一念に納めたる功徳善根なり』この御文が大事です。一念の大転換です。

一念が変われば、現実を変える挑戦が始まるからです。

勤行と題目の祈りの中に、全てを功徳善根に変えてみせるぞとの唱題行です。

「之に依って浄名経の中には~68ページの悟る時をば仏と名けたり」まで。

ここは浄名経を引かれて「生命の変革」と「国土の変革」の

2つの側面を解釈されています。心行 = 人の心と、その人の行動の事です。

衆生即菩提 (しゅじょうそくぼだい) も生死即涅槃 (しょうじそくねはん) も同じ意味です。

語句の意味は大白蓮華の上に書いてありますから、知識としてそのまま理解して下さい。

この「衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり」・・・ここが生命変革の原理です。

菩提や涅槃といっても、人間を超えて、他にあるのでは無いのです。

神や絶対的他者を求めるのではありません。

迷いの凡夫や苦しみを味わっている自分自身、そのものが、

『皆我が一念に納めたる功徳善根なり』との一念に立つことにより、

菩提や涅槃という仏としての境涯を開いていけるのです。

その決定 (けつじょう) した自分自身を創るのです。

唱題行で、自らの生命を鍛え上げるのです。

仏としての境涯を開くのは自分自身の生命の変革作業なのです。人間は何もしないと、

常に無明の生命である三毒の「怒り・愚か・貪り」という生命に覆われて行く。

この無明に支配された自分自身の生命を仏として開くのです。開くのは自分自身です。

これが、69ページ 1三代会長の心、創価の挑戦です。

「”我、妙法蓮華経なり”と決めよ」

「自身の生命を妙法に染めあげるのです。自身の生命を妙法で固めるのです。」

・・・ここは暗記するくらい読んで、覚えて下さい。

自分が仏としての境涯を開いてこそ、人にも伝える事ができます。

そして、社会全体も無明に覆われた命を仏として開いて往く事ができるのです。

これが次の御文です。

「浄土 (じょうど) と云い穢土 (えど) と云うも~」は、国土の変革の原理です。

人間革命の主題 (テーマ) である、「一人の人間における偉大な人間革命は、

やがて一国の宿命の転換を成し遂げ、ついには人類の宿命の転換をも可能にする」

これの部分でもあるのです。

余談になりますが、沖縄の那覇、真嘉比(まかび)支部の舟越さん、ご一家は見事なまでの

「三変土田」の実証を示された誇りの家族がいます。

沖縄戦の当時、日本軍沖縄防衛隊司令部のある首里まで、数キロの位置にあった、

那覇市最大の激戦区、真嘉比地区は今、最後の区画整理事業が進んでいます。

未だに、人骨と不発弾は毎週のように掘り起こされます。

その場所に広布の牙城、舟越栄光会館を建てて下さった。

本部の拠点として、地区・支部の皆さんまで、感謝で集い会っています。

80歳近くになるご夫妻は、多少の病気があっても、今なお、第一線で戦っています。

また、娘さんも、若いころの脳腫瘍の病魔を克服し、

更賜(きょうし)寿命の実証を示された。

20年近くを経過した今でも、戦う姿は広宣流布の感動の姿です。

また、長男の義友君は、一家の稼ぎかしらだ。

仕事が忙しすぎて、良いのか、良くないのか、経済的に大きな福運に包まれている。

会長就任50年は、世界広宣流布の50年です。

創価の父、牧口先生は妙法流布を実現すべき精神的価値を、

一次元から「大善 (だいぜん) 」と言われました。

戸田先生は、全人類の「人間革命」を高らかに謳われた。そして、

三代の池田先生は、全人類が目指すべき価値を「生命の尊厳」として展開したのです。

「只我らが心の善悪によると見えたり。」

心の善悪=生命尊厳への改革に挑戦しなさいとの意味です。

苦悩の中にこそ仏の生命は実在するのです。

ひとりの人間として具体的な実践に即して言うと、

1責任転換から、一人立つ精神へ。

2現実逃避から挑戦する自分へ。

3不平・不満の愚痴の心から、人を激励できる自分へ。また、

4嫉妬や憎しみから、異体同心の団結へ。

5憶病から勇気へ。これらが自分自身の人間革命への挑戦なのです。

「悟る時をば仏と名けたり」とは、仏の智恵を根本とするか、どうかです。

実際 「悟る時」 と言われても、理解できません。結果として、後から解るものなのです。

70ページ 2功徳は我にあり

「そう自分が自分で決めて、使命を果たしていくのが仏法である」

絶対に護られないわけはない。これが信心の実証です。結論です。

71ページ3 誠実に、真剣に 72ページになりますが

「題目を唱え抜いて、悔いなく戦いきることだ。

必ず、永遠の成仏という大果報を勝ち取っていくことができる。

創立80周年は皆が大功徳を開く時なのである」と。

この1、2、3とも全てが自分自身の一念の転換で、必ず「仏の大境涯を開いてみせる

という決意に立ちなさいとの指導なのです。

地上戦を経験した沖縄には「イヌチドウタカラ」=”命こそ宝”という思想が強く残っています。

奇しくも今年は、日蓮大聖人が時の執権 (最高権力者) に折伏の書、

「立正安国論」を上呈してから750年。

50年前のその時、池田先生の決意は、

「最も苦しみをなめたところが最も幸せにならねばならない。

なる資格があるし、必ずなっていく。

これが仏法である。沖縄を戦争の要塞から平和の要塞へと転換していく。」

これが先生の心でした。

しかし、当時の沖縄の会員は、沖縄創価学会、総会という認識しかなかった。

先生が来られて、初めて支部結成を知ったのです。

世界広宣流布の第一歩は、沖縄支部結成から始まったのです。

そして、今、創価の人間主義の連帯は世界192カ国、地域までも興隆しました。

今この瞬間、朝を迎える国もあります。

24時間世界中で我が同士の題目が響き渡っているのです。

2月3日の聖教新聞に、「忘れ得ぬあの瞬間」と題して、沖縄が紹介されます。

大百蓮華1月・2月・3月号と併せて、今なぜ沖縄なのかを学んで下さい。

先生の心を知ることが信心です。先生と呼吸を合せるのです。

師弟共戦の信心に徹してこそ、自分自身にすごい力が発揮されるのです。

最後の御文になりますが、

「誓えば闇鏡も~只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」

鎌倉時代の鏡は銅鏡(どうきょう)といって、相当な高価なものでした。

現代の鏡ではありません。

今で言えば、車のフロントガラスが温度差によって、曇るように、

当時の銅鏡は磨かないと映らないものでした。これを人の心に譬えたのです。

72ページ4 研ぎ澄まされた明鏡のごとく

「日々、妙法を朗々と唱え、学会活動に勇んで取り組むなかでこそ、

自分自身の生命が最高に練磨される」と。

人間は三毒が強くて、なにもしないと、すぐに迷いの生命(無明)となるのです。

自然に不幸へ、不幸へと流されてしまいます。

だから大聖人は「日夜朝晩にまた怠らず磨くべし」と言われました。

そして最後にもう一度、結論を訴えているのです。

「只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」です。

唱題行の重要性と、持続性の大事さを言われています。

具体的には、挑戦の題目と持続の題目です。

この2つを先生は「勇命精進の題目だよ」と言われました。

73ページ 5 世界一、富める者 

「今、題目を唱えられるという現実そのものが、最高に幸福な境涯なのである。

真剣に祈り、信心に徹すれば、」

・・・この功徳がどれほどすごいか、実証として示し切って行けとの指導です。

自身の生命を磨きに磨いてゆこうとの、大聖人の激励でもあるのです。

以上、本文に即して書きましたが、

1から5までの先生の指導が大事です。ここでは内容を省略していますが、

1から5までは、何度も何度も読んで心で知って下さい。

繰り返しますが、先生の心を知る事が信心です。仏法の心です。

そして師弟の戦いに徹すれば、自分自身に凄い力が出るのです。

まさしく過去を振り返れば、勝ち戦、

未来を見れば宝の中に入っていくような人生。これが仏の大境涯です。

最高の幸せの生き方なのです。

2010年1月28日