宝ものの君たちへ


心は、上手な絵描き

「桜梅桃李 (おうばいとうり) 」 という言葉があります。

桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李。

だから、素晴らしいのです。

自分の良い面を伸ばしていけば、

欠点は隠れるという事です。

例えば、「短気」は何をやっても速くて「スピーディー」だという長所にもなる。

「おとなしい」性格は「みんなの和をつくる」長所にもなる。

「感情の起伏の激しい」性格は「情熱的」になる。

「大雑把」な性格は「大らか」になる。

「神経質」な性格は「こまやかな」心配りになる。

性格が人生を決めるのではない。

性格を、「どう生かすか」で決まる。「どう生きたか」で決まるのです。

どんな性格であろうと、自分らしく、「誠実に生きていこう!」 と決めて頑張っていけばいいのです。

読書も 「やりきった!」 という努力が自信になる。

そうやって大地に足をつけた人は、人が認めてくれようが、くれまいが、そんな事は 「小さなこと」 だとわかるのです。

自分で自分を認めてあげれば、それでいいのです。

仏法では、「心は、上手な絵描きのようなものだ」 と教えています。

自由自在に、理想的な「自分の未来」をデッサンし、肉付けをし、色づけをして、やがて「現実」のものにしていける。

そういうすごい力が心にはあるのです。まして、君たちには「ご本尊」がある。

「こうなりたい」 というイメージをしっかりと描き、抱きしめて、祈り抜き、

努力していけば、必ず、自分の思い通りの生き方を歩めます。

以前にも書いた通り、御書には、

「心こそ大切なれ」

「心の財、第一なり」

「志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」等々と、何度も何度も、

「心」で耐え抜く。「心」で開く。そして「心」で勝つと教えています。

自分と友達について

「桜梅桃李 (おうばいとうり) 」 の別の意味は、友達との友情も教えています。

友人というのは、君を映し出す 「鏡」 です。

学生時代からの友もいれば、社会に出てからの人脈で築く友人もいる。

「自分が誠実で変らない」これが友情です。「自分で決まる」という事です。

相手の態度ではなく、自分の態度が大事です。

「相手が自分の事を思ってくれる」から友情ではない。

「相手が裏切らない」間だけ友情が成り立つものでもない。

「自分が相手を思う」からこそ友情なのです。たとえ相手にうらぎられても、

「自分は裏切らない」から友情なのです。むしろ相手が苦しい立場にいる時ほど、

自分だけは、その人の味方になってあげる。

その勇気が友情の心です。

例えば、竹は、一本一本が天に向かって、真っ直ぐ伸びている。

他の竹に寄りかかったりしていない。

但し、地下の根っこ(地下茎)の部分ではがっちりと繋がっているのです。

人間も同じで、一人一人は自立しています。真っ直ぐ生きていく強さを持っている。

でも、「心は繋がっている」それが友情です。

全て仏法の生き方なのです。

良書をとの語らい

心の大富豪の君へ

「読書の喜び」を知ってる人と知らない人

とでは、人生の深さ、大きさが、

まるっきり違ってしまいます。

一冊の良書は、

偉大な教師に巡り合ったと同じです。

読書は人間だけができる特権であり、

いかなる動物も読書は出来ない。

自分の人生は一回きりだが、読書によって、

何百・何千のほかの人生に触れることができるし、

2千年前の賢者とも、お話が出来ます。

多くの偉人は必ずと言っていいほど若い時に「座右の書」をもっていた。

それは、自分を励まし、リードするとともに、自分の親友であり、師匠と言える。

しかし、読書もそれなりの努力・挑戦・忍耐があって、

初めて「喜び」がわかってくるのです。いったん、その喜びを知った人は強い。

「本が友だち」になった人は強い。なにしろ古今東西の精神の「宝」を、

自由自在に味わい、くみ取り、使いこなしていけるのだから。

その人こそ、「心の大富豪」です。

人生の時間には限りがある。ゆえに、良書を読む事です。

良書を読む時間を作るには、悪書を読まないようにする以外ない。

悪書は、自分の心の中に、地獄というこれ以上のない最悪の苦しみや

餓鬼という貧欲な感情、畜生という愚痴の心、

修羅という怒りの命を湧きいだせる内容であり、

卑しい悲劇をもたらす、毒薬・麻薬のようなものです。それに対して、

良書は、幸福の向上と、知性と創造の方向に命を導き、

思想・人生を建設する健全さがあるのです。

どんなに読んでも、勉強しても、「もうこれで良い」とは言えない。

21世紀の大樹 (だいじゅ) となるべき君たちです。

今のうちに、どれだけ「心の大地」を読書によって耕したか。それで決まってしまう。

十分に耕され、養分を豊かにもった大地であれば、大樹は、いくらでも伸びていける。

みんな自分の中に無限の「可能性の大地」をもっている。

その大地を耕す「鍬(くわ)」が読書なのです。今の若い時に、

良書を読む習慣を作るべきです。そうしないと人生の後半になって、後悔してしまう。

自分は、精いっぱい読書に挑戦しきった。

「もうこれ以上読めない」「もうこれ以上勉強できない」。

そう言い切れる20代の青春であって欲しいのです。

なぜ、祈りは叶うのか


祈りは、自分自身の「勝利の原因」です。

“使命” とは “命を使う” と書きます。

「命」と「引きかえ」にしても、

惜しくないもの。

それが「使命」とも言える。

それだけ大事なものを自覚するのは、

ちょつとやったからといって簡単にわかるものではありません。

私たちは、無宗教と自称する人でも・・・何かを心から願っている。

何かを心の底で祈っている。これらを宇宙の法則のうえから、

祈りと現実がきちんと合致していくようにしたのが 仏法の祈りです。

自分という小さなギヤでも、妙法という大きなギヤと、きちって噛み合せていけば、

どんな悩みや困難も乗り越えていける無限のパワーがでるのです。

夢を育てるものは、努力です。

努力すればするほど、夢は大きくなっていく。

「夢」という生き物は、「努力」という食べ物を食べて大きくなるのです。

「夢」という宮殿は、「努力」という地道な石を重ねて、建設されるのです。

その夢を実現させる 「平和の武器」 がご本尊に対する祈りからの出発です。

これがスタートダッシュです。ここから、全てが始まります。

ありのままの姿でいい。

ご本尊を「根本中の根本」と尊敬して、素直に、子供が「お母さーん」と抱きついていくような気持ちで、ぶつかっていくことです。

苦しければ、苦しいまま。悲しければ悲しいまま。

つくろわず、飾らず、背伸びせず、ありのままの心で唱題をしていけばいいのです。

勤行する時間がなかったり、なかなかできない人は題目をあげなさい。

題目が「主食」であり、お経は「おかず」のようなものです。

両方がそろったほうが良いに決まっているが、まず題目を上げ切っていきなさい。

そして、その祈りは、自分自身の 「勝利の原因」 を作れます。

祈ったほうが勝ち。

得をします。題目をあげれば、生命力がわいて頭も良くなる。

また、自分の実力を出し切る生命力も湧いてくる。

例えば、実力が「十」ある人なら、社会での仕事や柔道の試合の時も「十」出す生命力がついてくる。

普通はよくて、七か八しか出ないものです。そして努力した延長に祈りは叶い始める。

「必ず、祈ったようになるんだ」と、自分自身の心が開けて行くのです。

それはまるで「太陽」が昇れば、「地上」 が明るく照らされていくように、現実の生活や仕事をはじめ、自分自身の将来の生き方など、自分が何をどうすれば、うまくいくのか、はっきり解ってくる。

そして、「また頑張ろう!」と元気が湧いてくる。

そして祈り方の大事な事は、「より具体的祈り」 でなければならない。

漠然とした一念であっては、「的」を見ないで「矢」を放つようなものです。

また祈れば何とかなるだろうというような、甘えた一念ではなく、「何としても実現してしていくんだ」という、強き強き叫びが、こもっていなければならない。

全身全霊をかけた真剣勝負の祈りが、ご本尊に通じないわけがないのです。

これが小宇宙という自分が、妙法蓮華経という仏の生命を大宇宙の妙法のリズムに合致させるゆえに、祈りは現実となって、表れ叶うのです。

これを「功徳」とも、「実証」とも言うのです。

ご本尊の事を別名、功徳樹 (くどくじゅ) とも言います。