宗門の本質
その間には、特に君に知って欲しいのは、
昭和54 年 (1979年) 4月24日の第三代会長勇退です。
当時私は24歳、男子部大ブロック長(現地区リーダー) 、
その模様を直接テレビで見ていました。
池田会長と北条理事長 (直後に4代目の会長)
の2名で、質素な机の前でのマスコミ会見です。
当時は何が起こったか、その意味は解らなかった。
しかし後にその真実が明かされるのです。
1.930年から始まった第一回の七つの鐘の終了を告げる
49年後の1.979年5月3日。
本来は大勝利で勝ち飾り、次の目標とメッセージを携えて
新たな広布新出発を荘厳する日です。
ところが180度全く逆の出来事になってしまった。
「先生は名誉会長として勇退したのだから、
聖教新聞には先生の行動は一切載せるな。
先生出席の会合では拍手をしてはいけないとか
・・・これ等が組織には流れてきました。」
これは拡大する学会員の増加に比例して、
先生を師匠と仰ぐ会員との絆に、
本来法主である日顕がそうならなかった事による嫉妬そのものでした。
僧俗和合の精神は異体同心の団結の基本です。
しかし大聖人の教えに背き続ける宗門を、先生は何度も指導して来ました。
真実の法華経の行者は先生ただお一人だったのです。
そしてその日は、学会本部の組織力と財力を嫉妬に狂った宗門と、その宗門の虜になった当時の学会首脳に乗っ取られたのです。
しかしその先生と会員との離反工作も、2年とも続かなかったのです。
その時の先生の心が、何年か後に、聖教新聞に掲載されました。一部を紹介します。
随筆 新・人間革命79 法悟空
【 嵐の「4・24」/断じて忘るな!学会精神を 】
畜生のごとき坊主らの暴圧による、わが友たちの苦悩を、悲鳴を、激怒の声を聞くたびに、私の心は血の涙に濡れた。心痛に、夜も眠れなかった。
私は、けなげな創価の同志を守るため、一心不乱に、僧俗の和合の道を探り続けた。
しかし後に退転した、ある最高幹部 (当時/福島源次郎副会長) の不用意な発言から、その努力が、いっさい水泡に帰しかねない状況になってしまったのである。
それは最初から、学会破壊を狙っていた仮面の陰謀家どもの好餌となった。
坊主らは、狂ったように「責任をとれ」と騒ぎ立てた。
私は苦悩した。
これ以上、学会員が苦しみ、坊主に苛められることだけは、防がねばならない。
戸田先生が「命よりも大事な組織」といわれた学会である。
民衆の幸福のため、広宣流布のため、世界の平和のための、仏意仏勅の組織である。
私の心中では、一身に泥をかぶり、会長を辞める気持ちで固まっていった。また、いずれ後進に道を譲ることは、何年も前から考えてきたことであった。
ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。
「私が辞めれば、事態は収まるんだな」
沈痛な空気が流れた。
やがて、誰かが口を開いた。
「時の流れは逆らえません」(当時/辻武寿 副会長)
沈黙が凍りついた。わが胸に、痛みが走った。
――たとえ皆が反対しても、
自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。
実際、私の会長辞任は、避けられないことかもしれない。
また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。
しかし、時流とはなんだ!
問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。
そこには、
学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。
宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。
それを推進したのは、あの悪名高き弁護士たちである。
それを知ってか知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである。
情けなく、また、私はあきれ果てた。
戸田会長は、遺言された。
「第三代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ!
そうすれば、必ず広宣流布できる」と。
この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。
なんと哀れな敗北者の姿よ。
ただ状況に押し流されてしまうのなら、
一体、学会精神は、どこにあるのか!
そんな渦中の、四月十二日、私は、
中国の周恩来総理の夫人である 鄧穎超女史と、迎賓館でお会いした。
その別れ際に、私は、会長を辞める意向をお伝えした。
「いけません!」
“人民の母” は笑みを消し、真剣な顔で言われた。
「まだまだ若すぎます。何より、あなたには人民の支持があります。
人民の支持のあるかぎり、やめてはいけません。
一歩も引いてはいけません!」
生死の境を越え、断崖絶壁を歩み抜いてこられた方の、毅然たる言葉であった。
やがて、暗き四月二十四日を迎えた。火曜日であった。
全国の代表幹部が、元気に、新宿文化会館に集って来た。
しかし、新たな“七つの鐘”を打ち鳴らす再出発となるべき、意義ある会合は、私の「会長勇退」と新会長の誕生の発表の場となってしまったのである。
大半の幹部にとって、まったく寝耳に水の衝撃であった。
私は途中から会場に入った。
「先生、辞めないでください!」
「先生、また会長になってください!」
「多くの同志が、先生をお待ちしております!」
などの声があがった。
皆不安な顔であった。
「あんなに暗く、希望のない会合はなかった」と、
後に当時の参加者は、皆、怒り狂っていた。
私は、厳然として言った。
「私は何も変わらない。恐れるな!
私は戸田先生の直弟子である!正義は必ず勝つ!」 と
あまりにも
悔しき この日を
忘れまじ
夕闇せまりて
一人 歩むを
これは、四月二十四日に記された日記帳の一首である。
わが家に帰り、妻に、会長を辞めたことを伝えると、妻は、何も聞かずに
「ああ、そうですか……。ご苦労様でした」と、
いつもと変わらず、微笑みながら、迎えてくれた。
随筆「新・人間革命」22 法悟空
【 広布誓願 の獅子よ一人立て 】
狂気そのものの中傷の集中砲火のさなかにあった五月三日、
本部総会が、創価大学の体育館で行われた。
首脳幹部も、不安と戸惑いを隠せなかった。
私への拍手も遠慮がちな姿が痛々しかった。
いな、浅ましかった。
総会が終了し、渡り廊下を歩いていると、数人の婦人たちが、「先生!」と叫んで、駆け寄って来た。
お子さん連れの方もいた。
一目、私に会おうと、ずっと待っていてくださったのであろう。
目には涙が光っていた。 「ありがとう! お元気で!」
私は、大きく手を振り、声をかけ、全力で励ましを送った。
そして、思った。
“これから、こういう人たちを、本当の善良の市民を、
誰が守っていくのか!
誰が幸福にしていくのか!
冷酷非道な法師の皮を着た畜生たちが、民衆の上に君臨すれば、
どうなってしまうのか!”
私は信濃町の本部には戻らず、
総会の会場から神奈川文化会館へ向かった。
世界につながる平和の港を望む横浜の地から、
新たな戦いを起こすのだと、心に決めていたからである。
五月五日、戸田先生のお顔を胸に描きながら、
わが誓いを筆に託して、私はしたためた。
「正義」
その脇に「われ一人正義の旗持つ也」と綴った。
私は
“今こそ本当の勝負だ。
いかなる立場になろうが、
私は断じて戦う。
たった一人になっても。
師弟不二の心で、
断固として勝利してみせる”
と、深く決意した。