沖縄「世界平和の碑」

世界青年平和文化祭は「平和の大航海時代」は、ウチナー(沖縄)からをテーマに1996年3月、世界平和の碑の建つ沖縄平和研修道場広場にて開催。

沖縄は美しい。「光の国」である。

その空の明るさを仰ぐたびに、私は思う。

この青き空を、若夏(うりずん)の風でなく、「鉄の暴風」が覆った日を。

この青き海が、1500隻の戦艦の重さで軋(きし)んだ日を。

この青き山々が、鉛色に変わった、あの夏を。

本土は自分たちを守る盾として、死ねよと沖縄を切り捨てた。

生け贄(にえ)にされ、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の島にされた・・・・・

沖縄戦のその見返りが、戦後の「核基地の島」だったとは!

「世界平和の碑」は、巨大なコンクリートの塊(かたまり)である。

長さ100メートル。高さ9メートル。

かつて米軍の核ミサイル「メースB」の発射基地であった。

ミサイル一発が広島型の原爆の威力。24発が配備されていた。

射程内に中国の主要都市が、すっぽり入った。北京まで1時間半で届くと。

おぞましき「戦争の要塞」! 人間の「無明(むみょう)」の権化(ごんけ)か。

これだけの資金と頭脳と人員と力を、「友好」のために使ったならば!

「脅威に備える」これほどの努力を、「脅威を無くす」友情の創造に振り向けたならば!

その日から、たちまち世界は一変するであろう。

その「勇気」があるかないかだ。

沖縄から見ると「日本の正体」が、よく見える。

今も続く人権無視の重圧。

日本はどこまで、紅涙(こうるい)の沖縄を踏みつけにすれば、気がすむのか。

多数のエゴで、弱い立場の人を犠牲にするのが民主主義なのか。

人の犠牲の上に安逸を貪るのは、人間として恥であり、罪ではないか。

「20世紀に、どこよりも苦しんだ沖縄」を「21世紀に、どこよりも幸せにする」ために全身全霊を傾かなければ、日本に正義はない。民主主義もない。

繁栄が続くこともないであろう。

差別するものは、その不正義の報いを必ず受けるからだ。

私が研修道場内の「基地」を見たのは、昭和58年(1983年)3月。

要塞は、すでに廃墟と化していた。地元では「取り壊そう」としていた。その心情はわかったが、私は反対した。

「いや、基地の跡は永遠に残そう。『人類は、かつて戦争という愚かなことをしたんだ』という、ひとつの証(あかし)として。

沖縄には、平和を考える原点の場所として、ひめゆりの塔(とう)ある。健児の塔もある。

それとは別の意味で、日本はもちろん世界の平和を考える原点の場所としよう」

こうして、永遠平和の要塞「世界平和の碑」は誕生した。

破壊の「死の洞窟」は、中国の友も集う「生命賛歌の砦」に変わった。平和誓願の若人の彫像が碑を飾った。

核も、戦争も、人の心から生まれた。ならば、まず人の一念(いちねん)の「発射の向き」を変えよ! その逆転の作業を!

「碑」は、その象徴である。人類史の悲劇が、この小さな島に集約された。ゆえに、人類史の転換を、この島から起こすのだ。

未来、いつの日か、沖縄の少年が聞くであろう。「お父さん、核って何? 昔、そんなものがあったの?」

「そうだよ。昔、昔、人間は、とってもおかしなことをしていたんだ。お互いに殺しあう機械を、いっぱい作って、それを突き付けあって、憎しみあって・・・・・それを『安全』って呼んでいたんだ」

未来、いつの日か、沖縄の少女は聞くであろう。「お母さん、戦争ってなあに? 昔、そんなものがあったの?」

「そうよ。昔、昔、人間は、とってもおかしなことをしていたの。お互いに殺し合って、傷つけ合って、いっぱい血と涙を流させて・・・・・それを『平和の為』って呼んでいたの」

そんな「光の明日」のために! 今、私たちは喜んで礎(いしずえ)となろう。

世界桂冠詩人 池田大作

1999年2月28日